第4回 アメリカ国歌を歌う

文&写真/樋口ちづ子(Text and photos by Chizuko Higuchi)

 「Oh, say, can you see 〜♬」

 7月12日、夕陽がゆっくりと西の空を染める頃、ロサンゼルスのドジャー・スタジアムは夏の夕の爽やかな空気に包まれていた。私が所属する地元オレンジ郡の混声合唱団(OCFC)26名は、緊張の面持ちで歌い始めた。球場は6万人収容である。ドジャースとコロラド・ロッキーズ戦の前にアメリカ国歌を歌う。いや、歌わせてもらうことになった。プロでもない。有名人でもない。素人の合唱団に幸運にも賜った至福の時である。一生一度のチャンスであろう。鳥肌が立つ。男声、女声、四部のハーモニーは大きなうねりとなり、広い野球場の芝をわたり、はるかかなたの星条旗をめざして昇っていった。精一杯歌いながら、私は実に清らかな心持ちだった。30年あまりの滞米生活が脳裏を横切った。

 小さなトランク一つで結婚するために渡米した。ポケットには帰りの飛行機の切符と500ドル。たったそれだけだった。大卒と教師の資格で何とかなるだろう。そんな、甘い考えはたちまちのうちに打ち砕かれた。日本人であること、日本語が話せることさえ、何の役にも立たなかった。当然だ。ここは外国で、私はよそ者だ。よそ者は底辺から這いあがってゆくだけだ。カラカラに乾いた砂漠の街、ラスベガスで、10年を過ごした。肉体労働の毎日。若いのだもの、へっちゃらだ。必死にアメリカンドリームを追いかけた。

ドジャー・スタジアム Photo © Chizuko Higuchi

ドジャー・スタジアム
Photo © Chizuko Higuchi

 へっちゃらでなかったのは、お産の時だった。担当のナースは男性だった。女性のナースにかえてほしい。これが遠慮して頼めなかった。子供は真夜中に無事、生まれた。生涯最良の日、ベガスには珍しく雨が降った。私の心も濡れた。この国で子供を産み、覚悟ができた気がする。お産の前後、1カ月しか休職できなかったが、失業するよりはましだ。すぐに、1日8時間の立ち仕事にもどった。

 ある日、子供を胸に抱いて、銀行の小さな支店に1週間分の収入を預けに行った。帰ろうとした時、背後から銀行強盗に襲われた。上から下まで黒服で、黒いスキーマスクで顔を覆った男にピストルを突きつけられた。彼がふりむいて銀行員にお金を要求しているすきに、足が先に動き出していた。出口に向かって全速力で駆けた。後ろから撃たれても、胸の中の赤子は生き延びるだろう。頭の中でそれだけ考えていた。行員の押したブザーで警官が駆けつけた。逃走する犯人は警官に撃ち殺された。手にしていたのは、私が今預けたわずかの金額だった。

 過ぎた日々の思い出はきりがない。

 仲間の合唱団員25人にも、沢山の思い出があるはずだ。いや、人種のるつぼの6万人の観衆にも、想像もつかない物語があるだろう。全員起立し、星条旗を見上げる。この国で生計をたて、子供を育て、社会の一員としての務めを果たす。ここで生きる喜びと感謝を6万人の人と共有する。そのために歌う。こんなうれしいミッションはない。

 長袖の白シャツ、黒ズボン、準正装の我々は胸に赤、白、青の3本のネックレスをかけた。米国旗の赤は勇気、白は真実、青は正義を象徴しているのだという。アメリカで今を生きる我々の胸の中には、星条旗がはためいている。しかし、背中には生まれ育った母国日本の、日の丸を背負っている。二国の間にはさまって、ますますおいしい人間に発酵してゆきたい。

 歌は終盤のクライマックスに近づいた。

 「O’er the land of the free and the home of the brave 〜♬」

 力の限り、あふれる思いをこめて、歌いあげた。6万人の観衆の怒涛のような歓声が一緒についてきてくれた。生きてゆく喜びがスタンドの夕空に結晶するかのようだった。ありがとう日本。ありがとうアメリカ。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう37年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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