第26回 いつか会える

文&写真/樋口ちづ子(Text and photos by Chizuko Higuchi)

 今は本の注文はインターネットでできる。電子書籍もある。知識や情報は渇望と意欲さえあれば得られる時代になった。それでも、紙世代の私には、手垢の付いた本を手元に置く楽しみは捨てがたい。

 37年前にラスベガスでアメリカ生活を始めたが、働いて、貯蓄することだけが生きがいの毎日だった。切り詰めた生活の中で唯一自分に許した贅沢は本を買うこと。ベガスには日本語書店はなかったので、半年に一度、片道5時間かけて、ロスにやってきた。1回に25冊くらい買っていた。新刊書は高価なので、小さな文庫本のみだ。読みたい本が沢山あり、25冊に絞るのに悩んだ。

 ベガスの生活は昼間は英語のみ。せめて就寝前のひと時は日本語の本を読みたかった。日本語を忘れてゆく。日本語の柔らかな表現や美的感覚が蒸発してゆく。カラカラの気候と生活環境に危機感があったのかもしれない。読んだ日本語は砂漠に水が吸い込まれるように身体に浸み込んでいった。全部読み切ってしまわないように、おしみおしみ丁寧に読んだ。

 それが何年も続くと本は大量にたまる。再読するほどではない本を処分し、捨てられない本だけが本棚に残った。中でも、心の支えにし、何度も読み返した一冊がある。10年間、「お守り」のように持っていた。「ニューヨークの光と影」という本だった。

「ニューヨークの光と影」砂金玲子 Photo © Chizuko Higuchi

「ニューヨークの光と影」砂金玲子
Photo © Chizuko Higuchi

 著者は1960年代に、日本の大学を卒業後米国に留学、大学院を終え、ニューヨークの社会福祉局の職員として働いた人。ニューヨークは世界中から高度な教育を受けた人、限りない富や才能を持った人が集中する大都会だ。しかし、反面、希望から絶望的環境へ落ちこぼれた人も多い。著者の携わった仕事は、政府の援助を求めてくる人を、ウエルフェアを受けられるか審査することや、貧困家庭を訪れ、カウンセリングをするケースワーカーの仕事など。毎日、申請者の切羽詰った窮状を受け止め、救済の手段を探す。社会がかかえる諸問題に真っ向から向き合う。時には自分の身の危険を感じることもあったようだ。沢山の醜い現実にも出くわしたことだろう。その経験を一冊の本にまとめ、社会福祉制度の現実と問題点を提示していた。

 何十年も前に、世界一の大都会で困難な仕事に身を挺した日本人女性がいたとは。いつかこんな強い頭、精神、行動力とやさしい心を持った人になりたい。この本はそうなれるように私の「お守り」になった。

 それから長い年月が経った。ベガスを離れ、転々と住所を変え、ロスに来た。子供の成長後は朝から晩まで仕事に打ち込んだ。地域社会のボランティアにも奔走できるようになったある日、大学のロス校友会に出席した。そこで一人の年老いた婦人を紹介された。ニューヨークからリタイヤーしてきた人。膝を痛め、温暖なロスで疲れた身体を休めていると言われた。健康もすぐれない様子だった。中華料理の円卓を囲んで会食した。砂に金と書いて、いさご、と読ませる珍しい名前だった。

 翌朝、朝のコーヒーを飲みながら、久々に本棚の前にいた。どうしてそこに行ったのかわからない。ふと本棚に目をやるとあの本が目に付いた。著者の名前は砂金玲子。もしかして昨晩会った人が私があこがれた砂金さんか。慌てて本の最後のページの略歴を探した。同校だった。

 突然涙があふれ、手垢の付いたボロボロの単行本の表紙に大粒の涙がポタポタと落ちた。身体が震えた。とうとう会えた、砂金さんに。その本を買った日から16年が経っていた。もう「お守り」がいらないほどに自分に自信がつき、「お守り」を忘れた頃に、その人はひっそりと現れた。

 あこがれた人にはいつか会える。その人に会えるだけの人間に自分が成長した時に。だから、失敗を繰り返しながら、愚鈍に努力することは無駄ではない。

 いつか会える。会えるのは成長したあなたかもしれない。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう37年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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