第28回 明日があるよ

文&写真/樋口ちづ子(Text and photos by Chizuko Higuchi)

 キャンプに行った子供が、帰ると言った日に帰らない。連絡もない。胸騒ぎがする。もう、生きた心地もしない。親にとってつらいことは多々あるが、こんなにつらいことはなかった。夏のキャンプの季節になると、あの数日を思い出し、息苦しくなる。

 成人した娘が知り合ったばかりの男性と一緒に仕事でサンフランシスコに行った。すぐに帰るはずの予定を変更し、ついでにヨセミテでキャンプをしてくるという。連絡があったのは水曜日だった。「これから山の中だから携帯電話は通じないよ。土曜日に帰るからね」

 ところが土曜日に帰って来なかった。日曜日の夜まで待った。帰らない。月曜日には仕事がある。寝ずの夜が明けた。朝、職場に電話する。無断欠勤していた。そんな子ではない。何かあったと確信する。ヨセミテのレンジャーに捜索願いを出した。

 女の子だ。車が故障した、男性とケンカをして、何かが起こった、レイプか、殺されたか、悪い想像ばかりが押し寄せる。今、この時に、娘はどこかで助けを求めているかもしれないと思うと、いたたまれなかった。何も手が付かない。夕方までに見つからなければ、警察に連絡しよう。

 午後2時、電話がなった。遠い電話の向こうで娘が泣いていた。生きていた。全身から力が抜けた。「なにやってるのよ」怒鳴ろうと思ったが、「お母さん、私が遭難したの、知ってた? 何があったか、お母さんには想像もつかないわよ」娘が泣きながら言っている。

ヨセミテの森 Photo © Chizuko Higuchi

ヨセミテの森
Photo © Chizuko Higuchi

 話はこうらしい。夕方何も持たずに、一人で気楽に森の中にジョギングにでかけた。娘は高校時代からクロスカントリーをしていて、マラソンは10年以上のベテランである。かなり遠くまで走り込んでしまった。森の中は同じようなトレイルが幾つもあり、帰りのコースを見失った。右往左往しているうちに、方向感覚を失った。森はどこもかしこも同じに見え、焦れば焦るほど、わからなくなった。夕闇が迫ってきた。川に沿ってゆけばどこかに出れると思い、坂を下り始めた。森の土は湿って滑った。そのまま転げて一気に川に落ちた。ずぶぬれだ。川の水を飲んだ。気温はドンドン下がり、ランニングの軽装だったので、凍えた。良く見ると、足元には熊や鹿の足跡がいっぱいだった。ついに森は漆黒の闇になった。

 土の上は湿って冷たく、とても座れない。石の上で、寒さと恐怖に耐え一夜を明かす。熊に襲われないように、絶えず緊張していた。熊が現れたらそれまでだ。生まれて初めて、この石の上で死ぬかもしれないと思った。長い長い夜だった。真っ暗闇の夜だった。

 朝日が微かに射してきた。太陽の当たっている方向をめざして、坂を登る。とにかく寒い。太陽に当たりたい。人間の姿を18時間見なかった。途中でコークの空き缶を見た時は、うれしかった。人間がここにいた証拠だ。坂を登り、ついに、レンジャーに見つけてもらった。助けられた。こういう経緯だった。

 夜中に帰宅した娘は別人だった。全身蚊にさされ、2倍の大きさに真っ赤に膨れ上がっていた。足も手も傷だらけだった。

 私を見ると身体ごと胸にぶつかってきて、嗚咽した。「自分がこんなに強いとは思わなかった」そう言って、オイオイ泣き続けた。

 母は知っていた。5年間付き合い、ウエディングの計画を立てていた男性とささいなことが原因で、別れてしまった。その直後に、腹いせに、知り合ったばかりの男性と出かけた。娘の中の何かが崩れている時だった。そして遭難した。

 死が隣にある真っ暗な森の夜、彼女は自分の中の闇を見つめ、歯をくいしばって耐えたに違いない。

 泣きなさい、気の済むまで。胸の奥にしまっていた後悔と不安と恐怖を吐き出すまで。

 生きて帰れてよかったね。明日があるよ。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう37年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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