[過去記事再掲] 日系アメリカ人強制収容所「マンザナー」巡礼

文&写真/佐藤美玲(Text and photos by Mirei Sato)

 第2次世界大戦中、1942年2月19日、ルーズベルト大統領は、安全保障の脅威になるという口実のもと、日系アメリカ人を強制収容所に送る権限を軍に与える「大統領行政命令9066号」(Executive Order 9066)を発令した。人種差別と不正義、屈辱を記憶し、過ちを繰り返さないために、日系アメリカ人は毎年2月19日を「The Day of Remembrance」と定め、心に刻む。(*注:情報は掲載誌発行時点のものです)

 悲しみと恥しかない場所に、あえて戻ることに、意義がある。二度と繰り返してはならないから……。

 第2次世界大戦中、人種差別によって強制収容所へ送られた日系アメリカ人たちが、そう誓って、欠かさず続けている旅がある。「マンザナー巡礼」(Manzanar Pilgrimage)だ。

 42回目になる今年、初めてその旅に同行した。アメリカに住み始めてから一度は訪れたいと思いつつ、機会を逃していた。取材先で知り合った日系2世の女性たちに、「私たちのバスに一緒に乗って行ったら?」と誘われ、便乗させてもらった。

マンザナー強制収容所の跡地にたつ慰霊塔 Photo © Mirei Sato

マンザナー強制収容所の跡地にたつ慰霊塔
Photo © Mirei Sato

   ◆◆◆

 4月30日、朝5時半。眠い目をこすりながらハンドルを切って、集合場所であるロサンゼルスの北郊、パサデナの仏教会に向かった。

 私を誘ってくれたミサ・マスモト・モリヒロさん(82)は、友人のサチヨ・ハマダさんを連れて、もう到着していた。
 「ミサちゃん」「サッちゃん」。そう呼び合う二人は、それぞれ、アリゾナのポストンとヒラリバーの強制収容所で、ティーンエイジャー時代を過ごした。マンザナー巡礼に参加するのは、私と同様、初めてだ。

 バスを用意してくれたのは、パサデナ日系文化協会(Pasadena Japanese Cultural Institute)。総勢約40人の一行は、日頃から地域の集まりで顔見知りの人が多い。折りたたみの椅子やアイスボックス、人数分のお茶にお弁当を積み込んで、出発する。

 よく取材先で見かける日系団体の代表が、普段着姿で家族と一緒に参加していた。「この仏教会のすぐそばで生まれ育ったんですよ」と言って、荷物の積み降ろしを手伝っている。
 日系人は、年とともに居住地が拡散し、日系の歴史やアイデンティティーの継承は難しくなっていると言われるが、生まれ育った場所で綿々とコミュニティーの結束に努めている人もいるのだ。

 バスに乗り込むと、ミサちゃんとサッちゃんから、前の晩に用意したというフルーツやヨーグルトの朝ご飯が回ってきた。
 「2時間後に、モハベ砂漠のマクドナルドでトイレ休憩です」「はーい」。朝日とともに走り出すバスは快適で、小さなスクリーンで映画も見られる。さながら、学校の遠足だ。

 年に一度の巡礼の日。同じようなバスが、ロサンゼルスのリトル東京や、カリフォルニア、そして全米の各地から、マンザナーを目指す。

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再現されたバラック小屋 Photo © Mirei Sato

再現されたバラック小屋
Photo © Mirei Sato

 マンザナーは、カリフォルニア州のオーウェンスバレー、シエラネバダ山脈の東端に位置する。ロサンゼルスから北へ、ラスベガスから西へ、どちらも226マイル。山を越えれば、東にデスバレー、西にセコイアの国立公園が広がる。

 日本軍が、ハワイの真珠湾を攻撃したのは、1941年12月7日。全米で日系人に対する排斥感情が高まり、アメリカ生まれの2世も「敵性外国人」と見なされて、スパイ行為を疑われた。

 翌年2月19日に、ルーズベルト大統領が大統領令9066号を発令し、西海岸で日系人に対する強制立ち退きが始まった。12万人が、二束三文で家財を売り払い、確かな行き先も知らされないまま、収容所に送られた。

 収容所は、カリフォルニア、アリゾナ、ユタ、コロラド、ワイオミング、アイダホ、アーカンソーの7州で、全10カ所。砂漠や荒野のど真ん中が選ばれた。先住民の居留地だった場所もある。
 鉄条網を張り巡らせ、バラック小屋が立ち並ぶだけの粗末な収容所が、突貫工事で造られた。建設作業を「ボランティア」でしたのも、集められた日系人だった。

 マンザナーには、6000エーカーに約500のバラックが並び、1万人以上が暮らした。収容された写真家のトーヨー・ミヤタケ(宮武東洋)が、こっそり持ち込んだカメラで撮影した記録写真が有名で、マンザナーの名は10収容所の中では日本人にもアメリカ人にも最もよく知られている。

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「本当にへんぴな所だよね」と言うミサさん(右) Photo © Mirei Sato

「本当にへんぴな所だよね」と言うミサさん(右)
Photo © Mirei Sato

 バスがモハベ砂漠に入ると、車窓には茶色い山が続き、時折カウボーイと牛の群れが見えるだけになった。

 車内では、映画「アメリカン・パスタイム」の上映が始まった。収容所で野球チームを結成した日系人のドラマで、中村雅俊とジュディ・オングが1世の夫婦役で出演している。
 映画が後半にさしかかり、志願して442部隊に入った長男が戦地から片足を失って戻ってきたあたりで、突然、窓の外に、雪をかぶった連山を一望できる平地がパッと開けた。

 一瞬すっと背筋が伸びるような美しさ。そこがマンザナーだった。それは、悲しい過去の歴史には似つかわしくない光景に思えた。

 バスを降りて、その幻想はすぐに吹き飛ぶ。両側を山に挟まれているため、ものすごい風が吹いている。太陽は出ているし、日差しも強いのに、寒い。フリースジャケットを羽織っても、効果がなかった。

 砂埃がひどくて、長いこと目を開けていられない。真夏の気温は摂氏40度まで上がるが、夜は冷え込み、雨はほとんど降らず、冬は氷点下になることもあるという。

 何年も前に、サンフランシスコで会った3世の女性が、マンザナーを初めて訪れたときに言っていたことを思い出した。「寒くて、砂が鼻やのどに入って耐えられなかった。ママもパパもここで3年も暮らしたんだと思って我慢したけれど…」

 私はきっと1日も持たない。そう言うと、ミサちゃんが、「ポストンは風も砂埃も、もっとひどかった」と言ってきた。慣れない暑さで、最初はよく鼻血が出たそうだ。

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「ここは国や州の史跡じゃない、私たちの場所、ホームなんだ」と話すモーさん。学生たちは真剣に聞き入っていた Photo © Mirei Sato

「ここは国や州の史跡じゃない、私たちの場所、ホームなんだ」と話すモーさん。学生たちは真剣に聞き入っていた
Photo © Mirei Sato

 バスが着いたのは午前11時。慰霊祭を含めた公式のプログラムが始まるまでに、まだ時間があった。風を少しでもよけられる場所を探して、皆でお弁当を食べた。各地から巡礼者を乗せた車が続々と到着する。あちらこちらで、再会を喜び合う姿が見られた。

 収容体験は、日系人にとって長い間、忘れたい記憶だった。そんな中で、マンザナーの跡地を「歴史遺産」として保存する活動は続いてきた。巡礼者は徐々に増え、ここ数年でバラック小屋を再現した展示施設も整備された。
 今ではマンザナーは、収容された場所に関係なく、日系人共通のシンボルだ。「あなたはどこ行ったの?」「私はジェローム」「うちはトパーズ」。そんな会話が、隣り合った同士で交わされていた。

 巡礼の群衆に、もう1世の姿はない。参加している収容体験者はすべて2世で、大半はミサちゃんやサッちゃんのように、収容所の中で学校に通い、青春を送った人たちだ。収容所で生まれたという人もいた。
 「男の子たちがこっそり抜け出して湖で魚を釣っていたけど、どのあたりだったっけ?」。ハイスクールの同窓会のような、弾んだ空気も溢れていた。

 私も知った顔を見つけた。モー・ニシダさん(74)。60年代から人種差別撤廃や社会正義のために活動している闘士で、マンザナー巡礼も69年の第1回から欠かしていない。
 なんと、ロサンゼルスから8日かけて「走ってきた」と言う。それも20年続けているというから驚いた。「若いときは5日で着いたよ」。

 そんなモーさんを、学生たちが「お話を聞かせてください」と取り囲む。モーさんが収容されたコロラド・アマチの収容所と比べて、マンザナーはどう違うかという質問に、「どこも一緒だよ。銃を突きつけられて鉄条網の中にいるということには変わりがない」と答えた。

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日系人は、9.11以降に強まったアラブ系とムスリム系に対する偏見と迫害に対して、強く抗議してきた。それを裏付けるように、巡礼にはムスリム系やほかの人種の参加も目立った Photo © Mirei Sato

日系人は、9.11以降に強まったアラブ系とムスリム系に対する偏見と迫害に対して、強く抗議してきた。それを裏付けるように、巡礼にはムスリム系やほかの人種の参加も目立った
Photo © Mirei Sato

 巡礼プログラムは、収容中に亡くなった人のお墓として建てられた白い慰霊塔の前で行われる。

 主催する「マンザナー・コミッティー」のブルース・エンブリー共同委員長は、69年に若い2世たちが始めた巡礼の意義を、こう語る。

 「収容された人たちの名誉を守るためにも、『仕方がない』と言わずに、恥ずべき過去を語り続ける責任がある」。「真実は痛みを伴うが、有益だ。熱いストーブを触った子供は、火傷はするが、二度と触らない。それと同じで、組織的に公民権を剥奪されるようなことが、ほかのどのグループにも起きないようにしなければならない」

 終戦から7年たって移民法が改正され、日系1世もアメリカ市民になることを許された。72年、マンザナー収容所跡地は、カリフォルニア州が認める史跡になり、92年に国定史跡となった。88年に、連邦政府は正式に強制収容を謝罪し、8万2000人の日系人に補償金を払った。

 そのどれも、黙って与えてもらえた訳ではない。愛国心を文字通り身をもって証明するため、犠牲になった2世の軍人たち。収容は違憲であると拒否し、逮捕されても法廷で闘った個人たち。補償と謝罪を求め続けた、公民権運動家たち。マンザナーの史跡認定や整備も、コミッティーの長年の働きで実現したことだ。

 それでもまだ、歴史が日系人の体験を正しく反映しているとは言いがたい。政府は戦時中、強制収容を、移転や避難という意味にもとれる「relocation」の名称で呼んだ。最近の教科書などには、抑留という意味を持つ「internment」が使われるが、これも「甘い」表現かも知れない。

 ユダヤ人強制収容所は、英語では「concentration camp」だ。日系アメリカ人市民協会(JACL)は昨年、「日系人の収容は、relocationではなくforced removal(強制排除)であり、internmentではなくconcentration campと呼ぶべきだ」と決議している。

   ◆◆◆

バラック小屋の内部 Photo © Mirei Sato

バラック小屋の内部
Photo © Mirei Sato

 2時間のプログラムは、スピーチに太鼓演奏、読経やお焼香も含まれ、最後は千人強の参加者全員が輪になって、炭坑節に乗って「音頭」を踊り、お開きとなる。

 往復にかかる時間を考えれば、マンザナーでの時間は短すぎる。しかしコミッティーは、「思い出は消えても、ストーリーを受け継いでほしい。数時間でいいからぜひ過ごして」と、若い世代やほかの人種にも巡礼参加を呼びかけている。

 バスが出発するまでの間、ミサちゃんと一緒に、再現されたバラック小屋や食堂の展示を見た。マンザナーでは、1つのブロックに14の小屋が並び、小屋の中はベニヤ板で4部屋に仕切られ、1部屋に6〜8人が暮らしていた。

 ミサちゃんは、「ポストンもこういうベニヤ板だった。薄くて穴だらけで、風がびゅうびゅう入ってきたのを、少しずつ直したの」と言っていた。
 収容所で過ごした高校生活、振り返れば、「まあ楽しいこともあったよね」。それでもこうして巡礼に来る理由は、「絶対に忘れてはいけないから」。今年、ポストンにも行く予定だ。

 帰りのバスでは、参加者がマンザナーのギフトショップで買った映画のDVD「スタンドアップ・フォー・ジャスティス」が上映された。メキシコ系でありながら、収容政策に疑問を持ち、日系人の友人たちを追って自らマンザナーに入った16歳の少年ラルフ・ラゾの実話をもとにしている。夕闇の中、皆、静かに見入った。

 映画が終わってしばらくすると、サッちゃんが話しかけてきた。

 収容所に送られたとき、15歳。カリフォルニア北部のサクラメント近くに住んでいた。ラゾの級友のように、手荷物だけで汽車に乗り、どこへ行くのか知らされないまま、2晩。降りたら、ヒラリバーだった。

 簡易シャワーには、仕切りもなかった。「足元を見るとサソリがいるの。下駄を履かないと入れなかった」。見知らぬ人たちとの共同生活。「もう、いろんなことは忘れちゃったけどね、でもやっぱり、ちょっとイヤだったよね…」

 それでも、「本当に苦労したのは、1世の人たちだったよ」と言う。サクラメント周辺には日系タウンが整い、立派な日本語学校もあったが、白人とは住む地域がしっかり分けられていた。
 サッちゃんの夫の叔父さんは、白人に放火されて亡くなったのだという。「真珠湾攻撃のずっと前からひどいことはいっぱいあった。日米が戦争になることもね、皆、分かっていたの」と話してくれた。

    ◆◆◆

 マンザナーから一番近い、町らしい町がローンパインだ。モーテルやレストランが何軒か並ぶ。そこを出ると、もう何もない。そのまま1時間45分、暗闇の車窓には、人っこ一人、人家らしいものすら見えなかった。

 なんでこんな所に……と思わずにいられなかった。

 働き盛りで、夢を抱え、進学や就職を控えた人たちがいただろう。鉄条網の中で、彼らは途切れた人生とどう折り合いをつけたのだろうか。1年であっても3年であっても、それは取り戻しのきかない時間だったはずだ。

 マンザナーには、日本人の血を引いているというだけの理由で、孤児院から連れてこられた子供たちがいた。生後半年にも満たない乳児や、日本人の血を8分の1しか引いていない子供までいたという。赤ちゃんが、一体どうやったら「敵性外国人」になるというのか?

 不条理を許す人種差別と憎悪は、アメリカからまだ消えてはいない。それを確認するためだけでも、マンザナーは、アメリカに住む日本人が一度は訪れるべき場所だと思う。

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マンザナー強制収容所跡地
Manzanar National Historic Site

案内センターの開館時間:夏期(4〜10月)は9am〜5:30pm、冬期(11〜3月)は9am〜4:30pm。クリスマス以外無休。入場無料。
◾️詳細:www.nps.gov/manz

マンザナー・コミッティー
毎年4月の巡礼でのバスの手配や、プログラムの予定を教えてくれる。
◾️詳細:www.manzanarcommittee.org

*マンザナー以外でも、跡地を保存し、展示施設をつくる動きや、同窓会の活動はある。

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佐藤美玲 (Mirei Sato)

佐藤美玲 (Mirei Sato)

ライタープロフィール

東京生まれ。子供の時に見たTVドラマ「Roots」に感化され、アメリカの黒人問題に対する興味を深める。日本女子大英文学科アメリカ研究卒業。朝日新聞記者を経て、1999年、大学院留学のため渡米。UCLAアメリカ黒人研究学部卒業・修士号。UMass-Amherst、UC-Berkeleyのアメリカ黒人研究学部・博士課程に在籍。黒人史と文化、メディアと人種の問題を研究。2007年からU.S. FrontLine誌編集記者。大統領選を含め、アメリカを深く広く取材する。

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