シリーズ世界へ! YOLO⑲クロアチア紀行
森とワインと国境と…

文&写真/佐藤美玲(Text and photos by Mirei Sato)

ジャコボの街にあるセントピータース大聖堂 Photo © Mirei Sato

ジャコボの街にあるセントピータース大聖堂
Photo © Mirei Sato

DAY 3

ナシチェ(Nasice)

ジャコボ(Dakovo)

オシエック(Osijek)

ポーツェガを出て、東へドライブ。スラボニア地方で一番大きな街、オシエックをめざす。
車窓に、小さな民家や農場。プラムやリンゴ、トウモロコシがなる畑。ブタにニワトリ。ヒマワリも目立つ。黄色い花が咲く時期はすでに終わっていたが、サンフラワーオイルをとるために枯れたままの群れが揺れている。

クロアチアは小さな国だが、地域によって、地形も風景もかなり違う。日本人にもアメリカ人にも旅行先として人気だが、ほとんどの人は、アドリア海沿岸やドブロブニクを訪れる。
内陸部、特にスラボニア地方は、そういう意味では観光地としての開発は遅れている。その分、「古きヨーロッパ」が残っている。

途中、ナシチェの街で休憩。クロアチアで最初の女性作曲家として知られるドラ・ベヤチェヴィッチの屋敷や、イチョウが舞い落ちるダウンタウンを歩いた。
ジャコボの街では、内部装飾が豪華なセントピータース大聖堂、人気馬種リピツァーナのファームに立ち寄った。

◆  ◆  

 オシエックに入ると、雰囲気ががらりと変わった。
街の入り口に、軍用タンクと衝突する赤いフィアット車のオブジェがあった。1991年、ユーゴスラビア紛争が勃発し、独立をめざすクロアチアは戦場になった。ユーゴ国軍に抵抗する市民の象徴として世界に流れた映像を再現したオブジェは、今も市民を鼓舞する。

街はずれを流れるドラヴァ川のほとりには、18世紀につくられた要塞が残っている。ユーゴ紛争で、ここは最前線になった。川沿いにある元ハイスクールの建物には、銃弾の跡がいっぱいだ。

オシエックを案内してくれたガイドのドゥブラさんは、内戦が始まったとき11歳、小学5年生だったという。空襲があるたび地下室に隠れたそうだ。ハイスクールの壁を見上げながら、教えてくれた。

多民族国家だったユーゴスラビア。クロアチア系もセルビア系も隣り合って暮らしていた。
「空襲が始まって、最初はセルビア系の近所の人たちも一緒に地下室に隠れていたんだけれど、だんだん過激派が増えていって…。クロアチア東部で大量虐殺が起きるようになった」

戦争が終わっても、トラウマはしばらく続いたという。「毎年、大晦日に花火が上がると、空襲を思い出して恐怖がよみがえったものです」
「今はもうあまり考えない。大昔のことのように思える。でも、あれが11歳だった自分の身に起こったことなのかって、今でも信じられずにいるけれど」

ユーゴ紛争は、20世紀の終わりを象徴する大ニュースだった。私も日本からCNNを見て追っていたはずなのに、正直あまり思い出せない。

今は、ハイスクールの外壁を這いつくばるようにツルがのび、花も咲く。川沿いを自転車で走り抜ける人たち。要塞の横の建物には「ハレムクラブ」という店があり、ダンサーの絵の看板がかかっていた。

25年前の戦争は、近いようで遠く、遠いようで近い。

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