クロアチア最東端の街イロックへ。東欧で最も古いワインセラーのひとつ、「Stari Podrumi」で、旅の最後の晩餐となった。
15世紀にできたワインセラーは、ドナウ川をみおろす高台のお城の地下にある。長いトンネル貯蔵庫に並ぶ、カビのはえた古いボトルの群れは、圧巻。ぞくっとする美しさを放つ。
ワインにも感動する。このクオリティーでボトル8ドル程度。ニューヨークやロサンゼルスのレストランで出したら、10倍はしそうな味だ。
ディナーには、イロック出身のイヴィツァさんも加わった。「48時間以内に出ていくように」言われ、1991年から1998年まで、クロアチアの沿岸部で「難民」として過ごした。明日はどうなるのか。自由を奪われ、不安に満ちた7年だったという。
病院の展示室で見た「許します、でも忘れません」という言葉が、私には引っかかっていた。イヴォーさんもイヴィツァさんも「許す」ことを覚えた。でも、それで十分なのだろうか?
ひとは憎むことを学ぶ。だからこそ、学び直し、許すこともできる。憎み合った同士、いつかどこかで抱き合うことができる。でも、そのスパンは長く、確率は低い。そうしている間にも、別の場所で、何千何万という新しい憎しみが生まれている。
このサイクルを、私たちは断ち切れるのだろうか? イヴォーさんにもイヴィツァさんにも、明確な答えはなかった。
ブコバルからイロックへ移動する途中、私たちの車が走る反対車線を、大型バスが何台も連なって猛スピードで走り抜けた。シリアからの難民を乗せて、セルビア国境から走ってくるバスだった。難民のための休息所も見かけた。警察車両がかたくガードしていた。
ちょうどこの時期、紛争が続く中東やアフリカからヨーロッパへ、難民が大量に押し寄せていた。イロックへ着く数日前、ハンガリーがセルビアとの国境を閉鎖した。そのため、ルートを変えてクロアチアに入る難民が増えたという説明だった。
クロアチアからハンガリー、そしてドイツや北欧へ。かつて、イヴォーさんがたどった道だ。
ハンガリーが国境を閉鎖し、警察と難民が衝突したというニュースを聞いて、イヴィツァさんは悲しそうに首を横に振った。でも、と続けて、「今回のシリアからの難民は、ちょっと様子が違うんです。お金を持っている。そして若い男が多い。難民にまぎれて、テロリストの一部が入ってきているのではないかとも、私たちは思っているんですよ」。
「ボーダー」で暮らす人たちは、一夜にして、憎む側にも、憎まれる側にもなる。逃げる側にも、受け入れる側にもなってきた。地図上の線以上に、さまざまなものを踏み越えて生きてきた、そういう人間たちのリアリズムと、優しさと…。イヴィツァさんやイヴォーさんを通して、アメリカや日本では感じられない、ヒューマニティーの一面に触れた気がした。
パリで同時多発テロが起きたのは、それからちょうど1カ月後だった。新しい戦争、新しい恐怖、新しい憎悪、新しい難民が、今日もまたどこかで生まれている。
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