第35回 抱かれて死にたい

文&写真/樋口ちづ子(Text and photo by Chizuko Higuchi)

 死は他人には訪れても、自分の死はいつも遠い所にあるものだ。自分だけは死なない気さえしている。そんなバカなことはあるはずがないが、自分がこの世から居なくなるという事実を受け入れるのは、誰にもそれ程困難だ。

 老いていく自覚症状はあるが、まさか自分が自分の身の回りの世話が出来なくなる日が来るとは考えられない。誰も家族や子供に迷惑をかけたくないし、ましてや他人のお世話にもなりたくない。ピンピンコロリが理想であるが、そうはいかないのも世の常だ。

 私も、最後は寝たきりになり、べチャべチャの得体の知れない食事をスプーンで口に入れてもらい、おしめを替えてもらうことになるのだろう。最初は家族で面倒を見ようと努力してくれるだろう。しかし最後の最後は疲れ果て、介護者も共倒れになる寸前で、施設に入れざるをえなくなるのが現実だ。

 大きな介護施設に入る人が大半だが、個人経営の家庭的な施設を選ぶ人もある。自宅の近所にはこういう家が幾つかある。ライセンスを取り、規定に従って改造した普通の平屋に最高6人まで高齢者を受け入れ、ビジネスとしてお世話している。高級住宅並みのもの、平均レベル、質素な家など様々である。公証人の仕事でそういう施設に入られている方を訪問することも多々ある。静かで穏やかな家、人の出入りが激しく活気のある家など色々だ。

春を告げる鳥 Photo © Chizuko Higuchi

春を告げる鳥
Photo © Chizuko Higuchi

 英語で奮闘してきた我々だが、歳を取ると、たとえ英語を理解していても、英語を話すことが面倒になり、返事は日本語でしかしなくなる人も出てくるそうだ。子供に還る現象の一例かもしれない。日本人経営の介護施設は、日本人のスタッフがいて、日本食が出されるから入居希望者から人気がある。おもてなし、気配りの日本人だから、言わなくても分かってくれるきめ細かい対応は入居者には嬉しいものだ。第一、周りから日本語が聞こえてくる環境は、入る人にも、預ける家族にとっても、ふるさとに帰ったような安心感があるだろう。日本人にはこの安心するということが、しあわせという意味にほぼ近い。

 介護施設を数軒持ち、何十年もこの仕事に打ち込んでいるMさんがいる。スタッフが入居者の食事、体調管理、投薬、日課など丁寧にお世話し、全て細かく記録する。高齢者の体調はいつどう急変するか分からない。緊急病院に送り込む時にはこの記録を手に、Mさんが付き添う。人の命を見守る仕事だから神経を使うだろう。

 最初はMさんにとっても単なる一つの仕事にすぎなかったのではないか。仕事が性に合い、ビジネスになる。しかし何十年も高齢者とその家族と付き合っている内には様々な局面に出くわしもしただろう。家族には長い年月にわたる争い、葛藤、憎しみと複雑に絡み合った家族愛の歴史がある。愛と憎しみは背中合わせである。それぞれの家族の歴史を垣間見ながら、入居者の最善の日々を守り、最後の時を快適に過ごさせてあげたいという気持ちは、段々にビジネスを超えたものになったに違いない。

 私の知人のEさんの母上が入居された。ある日Eさんが訪問している時に様子が急変した。すぐに救急車の手配がされたが、Mさんは「もう間に合わない。車や病院のストレッチャーの上で亡くなるより、ここで静かに逝かせてあげましょう」と言われたとか。Eさんが承諾するとMさんはすぐに、ベッドの上に這い上がり、母上を胸に抱いた。そして耳元で「お嬢さんも息子さんも今この部屋に居ますよ」と胸の中の母上に繰り返し言われたそうだ。沢山の死の瞬間に立ち会ったMさんには命の最後の時が分かるのだ。

 息は少しずつ弱くなる。まるで波が沖に引いてゆくように、静かになってゆく。やがて、大きな息をひとつ、ふうっとする。それが最後。そして静謐な時が来る。

 生まれた時に母親の胸に抱かれたように、来たところに還っていく時も、人の胸に抱かれて死ぬのがいい。抱かれて死にたい。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう37年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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