焼酎の時代の波に乗り遅れるな
「銀座のすずめ」でブランド確立

TOP INTERVIEW Vol.6
アメリカ市場に勝負を賭ける日系企業のトップに聞く。
八鹿酒造株式会社 代表取締役社長
麻生益直 / Masunao Aso

Photo © Keiko Fukuda

六代目

大分県九重町の蔵元、八鹿酒造の六代目です。高校時代は剣道に明け暮れ、先輩に憧れて進学した慶應義塾大学でもずっと体育会の剣道部でした。慶應の剣道部は非常に就職が良くて、同期21人中、三菱系に就職した人数が11人。僕も(三井)物産から「家を継ぐ前に5、6年商社で修行しないか」と声がかかっていました。行きたいな、とは思いましたが行きませんでした。実は中学時代から付き合っていた女房と慶應卒業と同時に結婚したからです。家族を養うには家に帰るしかないと八鹿酒造に入社しました。

焼酎の波

入社したのは昭和56年(1981年)でした。その年にむぎっ娘という焼酎を作って発売しました。僕が大学に通っている間に世の中が変わり、二階堂さん(大分県の二階堂麦焼酎)も三和酒類のいいちこさんも、突然、焼酎が売れ出したんです。それ以前は清酒の時代で、大分県下は八鹿の酒が席巻していました。しかし、全国を巻き込むほどの焼酎の波に乗り遅れるわけにはいかないと、親父に隠れてこっそり僕は焼酎を作り始めました。親父には反対されたので会社が二分したほどでした。それでも何とか完成させて、無事に市場に送り出すことができました。その時、親父に言われた言葉を今も忘れることができません。「最終列車の最後尾の最終デッキに間に合った」と。つまり、焼酎の波を列車に例えて、あとは努力を重ねて列車の前の車両に進むだけだ、という意味でした。

むぎっ娘は最初、よく売れました。しかし、分析してみると、それはいいちこや二階堂の供給が需要に追いついていなかったからなんです。2社の供給量が十分になるとうちの焼酎の売れ行きは停滞するようになりました。そこで1998年、さらに強力なブランドを確立する必要があると、準備に3年間かけて市場に送り込んだのが銀座のすずめでした。銀座の店に置かれても恥ずかしくない焼酎をという思いで開発し、「赤れんが」「柳」「ガス灯」と言った銀座のキーワードを名称にどうかと思案した後、森繁(久弥)さんの歌のタイトルにある「銀座のすずめ」を、森繁さんにお手紙を書いて許可を得た上で頂戴しました。

普通酒にして名酒

銀座のすずめの発売と同時にアメリカに進出しました。共同で輸出しようという清酒の企業のグループに参画したのです。当社は清酒だけでなく焼酎も持っていることが強みになりました。それから20年弱経ちます。実はすずめという鳥は北極と南極以外の地球全土で生息しているんですよ。農村にも都市部にも、赤道直下にもいます。人間が暮らす場所の近くにはすずめがいるんです。そういう意味では世界中のどこででも愛される酒になってほしいという思いも込められています。

これまでに飲んだ酒で美味しかった1杯? どこで飲んでもうちの(八鹿の)酒が美味しいですね。大学時代、剣道の早慶戦で勝った後に飲んだ酒の旨さ、負けた後の酒の苦さ、両方とも忘れられません。一番のお勧めは笑門、普通酒です。普通酒にして名酒、というのが当社の基本的な考え方です。日々の生活の中で地元の人々に愛されている酒をしっかりと作り続けなければいけないと思っています。八代目となる益太郎もすくすくと育っています。

PROFILE
大分県玖珠郡九重町出身。慶應義塾大学法学部を卒業した1981年に家業の八鹿酒造に入社。銀座のすずめを発売、アメリカに進出した1998年に同社代表取締役就任。剣道4段。大分県体育協会副会長。

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