第55回 長い、長い一年

文&写真/樋口ちづ子(Text and photo by Chizuko Higuchi)

Photo © Chizuko Higuchi

毎日、夢中で目一杯動いているうちに、カレンダーは年末の月に入っている。年初めにした仕事や体験は、まるで遠い過去の出来事のように、霞んだ風景として記憶の底に沈んでいる。長い一年だった。

年頭に、はっきりと決意したことがあった。それは、これまでにやらなかったこと、私にとって難しいことにあえて挑んでみよう、ということだった。その自分への宿題のために時間とエネルギーを使おう。そうしなければ、長年続けてきた仕事を継続するだけの一年で終わるだろう。それは、嫌だった。

これは世間一般では引退の年齢になった人間が考えることではない。こんな歳になったら、これまで築いてきたキャリアをキズつけないように、危険を冒さず、安全地帯の中で、有終の美を飾るのが賢明な人がすることだ。しかし私はそうではなく、どちらかといえば、おバカさんの道を、熱心に進んでみようとしたのである。

結果はいうまでもなく、疲労困憊だった。思った以上に頭を悩まし、神経をすり減らす難しい仕事。何をどうしていいのか暗中模索の煩雑なボランティアの役割。気が狂いそうな一年だった。

毎日疲れていたのは確かだ。しかし、良かったこともある。心配で眠れぬ夜が続いたせいか、時間が非常に長く感じられた。時間の隅々まで使い尽くし、すべてのエネルギーを出し尽くした毎日。目指した結果が出たわけではないが、時間を使い切った充足感はあった。

新しいことに立ち向かう時はいつも恐怖で足が震え、逃げ出したくなる。私には忘れられない思い出がある。若き日、日本語学校の教師、米国の小学校の絵の教師、パートタイムのウェイトレスなど、複数の職を掛け持ちしていた。レストランで働いていた時、誰の口からか、私の絵がジョン・ウェイン空港のロビーにかかっていることがウワサに上り、数人のお客様から、今度絵を教えてください、と言われた。勿論、社交辞令だ。言われた誰からも、具体的な行動はなかった。ただ一人を除いて。いつもヨレヨレのTシャツ姿で、印刷のビジネスをしているというお爺さんから、絵を習うのに必要な最低限度の道具を全部揃えて買ってくること、何曜日の何時に私の家に来なさい、と住所を渡された。半信半疑で、それでも、新しい道具一式を全部揃えた。総額は私には大金だったので、払い戻してもらえるか心配だった。もらった住所を頼りに、家の前に来た時、住所が間違っていると思った。その住所にはお城のような豪邸が聳え立ち、家の周囲は鉄の柵でぐるりと囲われていた。こんなところであるはずがない、間違いだ、帰ろう、と車のドアに手をかけた時、背後の鉄の門がするりと開き、玄関から入っておいで、とその人が呼んでいた。

玄関から螺旋階段が二階につながり、天井から下がったシャンデリアに反射した太陽光が七色の虹の光を辺り一面にまき散らしていた。夢のようだ。案内された居間は映画館のように大きく、一面の窓ガラスからは眼下の町が眺望できた。六角形に突き出た塔は朝食室。茶室もあった。こんな家があるんだ。

個人レッスンをするのは初めてで、しどろもどろだったが、自分なりに、絵とはどういうものなのかを話した。写真のような絵なら、写真の方がいい。あなたの目に映った対象物をあなたの心象風景として描くのが絵ではないか。しかし、心象風景としての絵を描くには、見たままを正確に描ける力が土台になければその上に自分のイメージを構築できない。だから基本を身に付けることが実は自分の絵を自由に描く最短の道などと自分の考えを話した。彼は、じゃあ僕はあなたにビジネスの基本を教えてあげよう、と雑談をしてくれた。

その時に私の年収は彼の家の不動産税の4分の1だと知り、内心ショックを受けた。同じように米国で過ごしているのに、この落差は何なのだろう。帰り際に、持って行きなさい、と今までに見たこともない大きな虎屋の羊羹をもらった。重かった。背後で門が閉まった時、夢を見ていたのではないか、としばらく茫然とした。自分の何かが揺さぶられるのを感じた。

同じ時間を生きても、何をするかで時間の流れる速度が違ってくるのではないか。未経験のことが起こる時、時間は濃密にゆっくりと流れる。易しい道と難しい道の岐路で私たちは日々、立ち止まり、迷う。選択はあなた次第。難しい道を選んだら、疲れ、失敗し、苦い思いをするだろう。しかし濃密な時間をたっぷりと生きられる。長い一年を生きられる。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう37年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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