第56回 新しい日

文&写真/樋口ちづ子(Text and photo by Chizuko Higuchi)

遠くの空
Photo © Chizuko Higuchi

アメリカに住む日本人である我々には、二つの祖国がある。人としての矜持と繊細な情感を含んだ日本語を教えてくれた母国、日本。人間は皆平等で、社会人としての責任を果たし、社会のルールに従って生きる限りは、誰でも幸せになるチャンスがある米国。異なった文化と価値観を持つ両国。その良いとこ取りをするのは、当初は混乱したが、今ではそれゆえに2倍の豊かさを体験している。体が動くうちは現実に太平洋を一飛びするのだから、異なった社会を行き来する醍醐味を味わえる。

しかし、加齢とともに一つ、二つと身体の部品が壊れ始め、とうとうポンコツに近づくと、どちらかの国を選択しなければならなくなる。どちらにも良い所があり、愛着がある。一つを取ると、もう一つを捨てざるを得ない。ここが辛いところだ。

選択は三者三様である。最初から、いつかは日本に帰るとはっきり決めている人。動ける間は米国で、いよいよ他人の手を借りなければ生活できなくなったら日本に帰るという人。この国に骨を埋めるという人。それぞれにそれなりの理由があり、選択は個人の自由だ。

日本に帰る理由の第一は医療費の問題だ。アメリカは日本とは比べものにならないくらいに医療費が高い。大病をしたら、日本に帰りたいのは当然だ。それに、人種のるつぼの米国では、ドクターも日本人の体質に熟知した人ばかりではない。どうも気が晴れない、鈍痛がある、しくしく痛む、というような病状をどう英語で説明できるだろう。そんな時は、以心伝心の日本がいい。

もう一つは帰って行ける場所、特に、身を寄せる家族あるいは友人知人がいるかどうかだ。ここで生きようと米国を選んだ親だが、米国で教育を受けた自分の子どもが成人後に日本に住むことを選んだ時、親は日本の子のもとに素直に帰ってゆく。人は自分を愛してくれる人のもとに帰ってゆく。

一方、現在80〜90代の日本人女性で米国人と結婚し、子どもがない人の例もある。夫に先立たれている人が多い。夫の親族が残された日本人妻のお世話をするのはまれだ。独りの老後になった時は、施設で最後を迎える人が多い。寝たきりになると、数年後にはボケが始まる。英語で何か聞かれると、意味は分かっていても、もう返事をしなくなるそうだ。それでもたまに日本人の友人が訪ねて来ると、日本語で返事が返ってくるという。考えを伝えようとする言語である英語と、人との関係を円滑にするための言語である日本語との違いかもしれない。日本語は、なんともいえない感情をうまく伝える術のある言語だ。言葉の裏に隠れた胸の内を伝えられる言語だ。

一人残った日本人女性が眠るベッドに付き添い、一緒に静かな時間を過ごすのが好きだ。どんな日々を生きてこられたのか、寝顔に問いかける。きっと私には想像もつかない、楽しみや苦しみがあったに違いない。思い出を分かち合った夫はもういないが、米国で過ごした歳月のあれやこれやは、静かに眠る人の胸の片隅で密かに息付いているに違いない。誰に知られずとも良い。全力で生き、悩み、笑ったたくさんの思い出があれば満足だ。こうして寝たきりになった今、蓄えた貯金と家を売ったお金で、何でも買える。しかし、お金ができた時は、もう何も欲しくない。なんと皮肉なことだろう。若さも、物質もすべては過ぎ去ってゆく。残るのは、たくさんの思い出。毎日を懸命に生きた思い出が生きた証だ。

私もたくさんの日本人の方と同様に、この国で仕事を見つけ、子どもを産み、育てた。日本人の私が、アメリカ人として生きる子どもをどう教育したらいいのだろうと、試行錯誤した。人種差別も歴然とあった。それに耐えながら汗と涙と笑いの歳月を、ここで刻んできた。ここが私の生きた証がある所。だからここで骨を埋めたい。たくさんの思い出を胸に抱いて眠りたい。その思い出は、生きている今、今日、作らなければ。作り続けなければ。

2018年も、「ザ・ロング・アンド・ワインディングロード(長い、曲がりくねった道)」(ビートルズの歌)が目前に続いている。この道をひたすら歩みたい。きっと思いもよらない困難が待ち受けているだろう。それでもいい。真面目すぎると疲れてしまうから、ときどき道草をして、ひと息入れたい。「山路来て 何やらゆかし すみれ草」(松尾芭蕉)。

新年の皆様のご多幸を祈念致します。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう37年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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