ハリケーン・カトリーナから10年目の夏がめぐってきた。水と食と生と死の街、ニューオーリンズを歩いた。

ジャクソン・スクエアの、ストリート・パフォーマー
Photo © Mirei Sato
私がジャズに目覚めたのは十代の半ばだった。といっても、プレーするわけではなく、聴く専門。自分の鼓動、ジャズこそオーガズムだ、と、そんなことまで言ってまわっていた気がする。
ジャズが生まれた街ニューオーリンズは、だから私には特別な場所だった。この上なくアメリカの魂を体現している街に思えた。
バックパッカーでアメリカへ来始めて、何度目かのとき。シカゴからニューオーリンズへ、ミシシッピ川に沿ってくだる旅をした。ジャズが北上した歴史を、逆行するような道のりだ。
シカゴから乗り継いだグレイハウンド(長距離バス)が、レイク・ポンチャートレインにかかる長い橋を渡り始めたときは、興奮した。グレイハウンドの窓ガラスはきたない。汚れとくもりをこすりながら、車窓を見つめたことを覚えている。
貧乏旅行だったがちょっと奮発して、フレンチ・クオーターの中にある宿に泊まった。一泊40〜50ドルはしたと思う。有名なコーンストーク模様のフェンスがあるホテルの並びで、ニューオーリンズらしい中庭がある宿だ。
朝日がのぼり始めると同時に、ミシシッピ川へ向かって歩いた。そこはちょっとした土手になっていて、わびしい線路と踏切が見えた。線路を越した向こう側の土手の上で、男が一人、アルトサックスを吹いていた。
川向こうから上がってくる黄金色の朝日が、彼の背中を照らし、サックスの金管がきらめいた。川と彼と私だけの世界。「This cannot be real…」。映画の一場面のように思えた。
昼間であれば、小銭稼ぎのストリートミュージシャンはたくさんいる。けれど、まだ暗い早朝だ。人知れずソロの練習をしていたのか、それとも、彼もまたこの街に憧れる旅人ミュージシャンだったのか。
今でも、あれは夢だったのかもしれないと思う。それぐらい、「できすぎ」ていた。男が私に気づいて手を振ったような気もするし、振らなかったような気もする。そのへんはもう、幻想になっている。
夜はバーボン・ストリート周辺のジャズクラブをはしごした。古い「プリザベーション・ホール」へも行った。すでにCDの時代だったが、ここのバンドはカセットテープを売っていた。それを買ってサインをもらった。
フレンチ・クオーターはどこのクラブもカバーチャージなどなしで、ドリンクも安い。ホット・バタード・ラム、ハリケーン、ミント・ジュレップ……。南部のカクテルの味を覚えた。
店に入らなくても、道端に立っていれば、開けっ放した窓からバンドが見えて、演奏も聴けた。カウンター席で隣り合った人がサックス奏者で、「明日ナッチェズ(観光客向けの蒸気船)で演奏するからおいでよ」と言ってくれた。至福の時を過ごすのに、お金はほとんどかからなかった。
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