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裏ななつ星紀行~高野山編 第七話
文/片山恭一 (Text by Kyoichi Katayama)
写真/小平尚典 (Photos by Naonori Kohira)
- 2015年8月20日
小説家・片山恭一と写真家・小平尚典が、開創1200年を迎えた高野山へ、旅に出た。
「弘法大師」という名称は、いわゆる諡号である。これは朝廷から与えられる名誉称号で、空海の場合は死後八十年以上経って、後醍醐天皇から与えられている。僧にたいする諡号としては、最澄の伝教大師が最初とされるが、こちらは空海のものほど有名ではない。日蓮や親鸞など、他にも諡号を与えられた僧侶は何人もいるけれど、空海の場合だけが伝説化され、釈尊やキリストと同じように、「弘法大師」という名とともに信仰の対象となっていく。歴史上の生身の人間だった空海が神格化され、如来菩薩に準じた扱いを受けるようになる。
これも空海に限ったことではない。菅原道真は天満宮に祀られて天神様となり、徳川家康もやはり東照大権現という神になった。ただ同じように神格化されても、空海の場合は「お大師様」という呼び方が象徴しているように、もっと身近で「ともにある存在」と感じられているのではないだろうか。それは空海という一人の生身の人間が、まったく無理のないかたちで、いわば自然の風物のように神格化されたことを意味している。
もちろん生前の空海を慕い頼りにしたのは、嵯峨天皇をはじめとする朝廷の有力者たちである。これは江戸時代になっても変わらず、諸大名は高野山の子寺と檀縁関係を結ぶようになり、現在も高野山には徳川家の霊台がある。また先にも触れたように、奥之院には名だたる戦国武将たちの墓が建ち、明治以降の実業家や富豪たちの立派な墓もある。それとともに「お大師様」と慕われ、広く庶民の信仰を集めているところが、弘法大師空海の大きな特徴であるように思われる。貴賤を問わず多くの人々が、あるいは広く人間の心が、空海の死後に生じた重力場に引きつけられつづけている。彼は宇宙的と言っていい規模と深度で、人間の普遍性を追い求めた宗教家であり、思想家であった。このことは私たちが人と人のつながりを考える上で、何か大切なことを示唆している気がする。
国家や民族を超越して、ひたすら人類的・宇宙的な普遍を追い求めた空海。しかし現在、国家を超えるとか廃絶するとかいった動きはどこにも見られない。景気の動向、株価や為替レートといった目先の現実に心を奪われ、為政者たちのなかにも新しい世界を構想するなどといった志は微塵もない。逆にグローバリゼーションの世界的な進展が、国家や民族レベルでの危機感を誘発し、それがポピュリズムやナショナリズムと結びついて、国家的なものが色濃く押し出されているのが現状だと言える。こうした現実のなかに、生身の人間としての空海が追い求めた思想があり、死後に形作られた入定信仰がある。
諸国を巡っていた多数の高野聖を捕らえて惨殺し、高野山を包囲して攻めようとした織田信長も、その信長を討った明智光秀も、この奥之院に墓がある。もちろん本人たちの意思ではないだろう。名もない人たちが、宗派や敵味方を差別しない安らぎの場所を、弘法大師の御廟の近くに求めたものと思われる。あるいは空海の説いた真言密教という包摂の原理が、ここに不思議な理想郷を生み出したとも言えるかもしれない。そのような無数の無名の人々の願いや希望が込められ、投影された場所として奥之院はある。
ここで親鸞が「出家」と言っているのは、死後と読み替えることができる。つまり死後の生であり、現世にある死後、親鸞の言葉では還相にある生の様態のことである。死はすべてを無化する。そのなかには当然、国家の死後や、国家的な権威権勢の無化も含まれる。そのような死を媒介として現世にある者は、富や権力といった現世的な価値も、人種や民族や宗派といった地上的な差異も、さらには親子血縁といった生物学的な差異までもが無化され、ただ「死すべき存在である」という平等性のもとに抽象化されている。死の光の下で私たちは、誰もが一人の人間、ただ一個の生命である。生前に何者であったかにかかわらず、死後は匿名の死者でしかない。そのようなものとして、すでに私たちは現世においてありうる。この身のままで即座にありうる。空海が生涯を賭して説こうとした「即身成仏」の教えとは、そうしたものではないだろうか。
どこへ向かって死ぬか、ということが長く心に引っかかってきた。すでに一二〇〇年前に弘法大師空海は、一つの答えを出そうとしていたように見える。その答えに少しでも近づくために、生身の人間としての空海がつくり上げた思想と、死後に形作られた弘法大師をめぐる信仰と、二つながらに損なうことなく受け取りたい気がする。一人の思想家が追い求めたものと、無数の無名の人々の願望がつくり上げたものと、両方を障りなく相応したものとして受け取りたいと思う。
この世界に帰属している私たちが、この世界に帰属しているもののなかに、「かけがえのない」という、この世界に帰属しないものを見出す。いかにも不思議な現象、自律的でもあれば他律的でもある現象こそが奇蹟なのだ。この世界ともう一つの世界の交差点において、相応し融通無碍に溶け合っている生命として、私たちは互いに死の虚無化によって奪われることのないものを見出しうる。そのことが奇蹟であり神秘であり、さらに言えば人間的普遍なのだ。この普遍性へ向かって死ね。そのとき死は生の果ての虚無ではなく、出発すべきものになる。そして死の絶望は、希望ともなるだろう。
高野山奥之院において永遠なる定に入っているとされる弘法大師空海。それは一篇の詩であり劇である。この開かれた詩、無言の劇に、私たちは自分のなかの欠落感を重ね合わせる。欠落感を埋め、満たし、溢れさせるための手がかりを見出そうとして、ここにやって来る。そのような天空の聖地で、今後も高野山はありつづけるだろう。
「裏ななつ星紀行〜高野山編」は今回で終了します。近く始まる新シリーズ「紀州編」をお楽しみに!
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