第80回 犬を助けるということ(前編)
文&写真/寺口麻穂(Text and photos by Maho Teraguchi)
- 2015年5月5日
15年前、人間によってこの上ない虐待を受け、後に無事保護されたにも関わらず、結局行き場がなく、安楽死寸前のところで救出されたジュリエットと出会いました。それがきっかけで、私は動物愛護・福祉にどんどん関心が湧き、気がつけば、その中にどっぷり入り込んで働いていました。動物愛護活動の世界に入って10数年の間にこの世界の喜怒哀楽をすべて体験し、周りのさまざまな考え方を学びながら、「犬を助ける」ということについて考えてきました。今号・次号と2回に渡り、私なりの「犬を助ける」という哲学をお話します。
命が救えれば?
アニマル・シェルターに通い始めてから、これでもかと言うほどの悲しく厳しい現実に直面する日が続きました。勤務初日に仲良くなった犬が、次に行った時には安楽死させられていなくなっている…信じられない状態で保護されてくる犬たちが後を絶たないかと思えば、お金をかけ可愛がっていたはずの犬を不要品のように簡単に手放す人も。その惨状に、帰りの車の中で号泣すること度々。捨てられて保護されてくる動物の数は後を絶たないのに対し、アダプトされる動物の数はほんのわずか。行き場のない動物たちは殺処分という悲しい運命を辿ることになります。そうなると命を救うためにさまざまな手段が取られます。
小さい公営のシェルターでボランティアを始めた頃のことです。ジャーマン・シェパードやロットワイラーのような大型犬は保護されてもなかなか貰い手がありません。人間に慣れてないとなれば尚更です。そのうち保護期間終了の日が迫り、「死刑宣告」が下ります。すると近所でガードドッグのレンタルビジネスを営む人がやってきて、行き場がなくなった大型犬を引き取って行くのです。引き取られた犬たちは家庭のペットではなく、誰もいない真っ暗などこかの敷地で悪者からビジネスを守るガードドッグとしてのみ生かされます。それでも、犬たちは「死刑」を逃れ、命はつながったわけです。

シェルターに辿り着く犬たちを助けるということは…
Photo © Maho Teraguchi
入ってくる犬を拒めない公営のシェルターでは、ほとんど毎日のように安楽死処分が行われています。外部の私営レスキュー団体は全力を挙げてシェルターにいる犬たちの行き場探しをします。我が家の愛犬ジュリエットもノアもそういう団体によって救出されました。そんなレスキュー団体のお陰で、幸せな家に辿り着いた犬は山ほどいます。しかし、レスキュー団体の中には、死刑宣告を受けた犬を引き出す行為に執着してしまい、引き出された犬たちに家はなく、結局シェルターから場所が移動しただけ。行き場のない犬たちは、小さな檻に入ったまま何カ月も、何年も、また一生そういう状態で過ごすことになることもあります。命は救われたにしても、それが犬にとっての幸せと呼べるでしょうか?
犬屋敷と呼ばれるホーダーズも同じです。可哀相な犬を見過ごすわけにはいかないとどんどん保護していくうちに、家は犬と糞とゴミで溢れ、仕舞いには収拾がつかず地獄絵のような状態にまで陥ることも。助けられたはずの犬たちが「助けてくれ、この場から出してくれ」と請っている。良かれと思って取った行為が、反対に犬の首を締め付けるのです。
誰もが「1匹でも多くのホームレス犬の命を救いたい」と思っているはず。でも、もっと大切なのは「ホームレス犬を作らない世界にする」ではないでしょうか。それが犬を助けることだと信じています。それでは、私たち人間は何をすればいいのでしょうか?
次回は、私の信じる「犬を助ける」ためにすべきことをお話します。
この記事が気に入りましたか?
US FrontLineは毎日アメリカの最新情報を日本語でお届けします