裏ななつ星紀行~高野山編 第五話

文/片山恭一 (Text by Kyoichi Katayama)
写真/小平尚典 (Photos by Naonori Kohira)

小説家・片山恭一と写真家・小平尚典が、開創1200年を迎えた高野山へ、旅に出た。

Photo © Naonori Kohira

Photo © Naonori Kohira

 
 三昧堂の前に「西行桜」と呼ばれる小さな桜の木がある。西行法師が手ずから植えたと伝わるものである。たしかに西行といえば桜、「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃」という有名な歌をはじめ、『西行桜』という世阿弥の能もあるくらいだが、この桜の木を見るまで、彼が高野山に身を寄せていたことには思い至らなかった。出家後の西行法師には、種田山頭火のように諸国を放浪していたイメージが強いせいだろうか。
 俗名を佐藤義清(憲清)という。藤原鎌足を祖先とする裕福な武士の家系に生まれ、若くして「北面の武士」と呼ばれる武士団に選ばれる。これは院直属の精鋭部隊であり、同僚には平清盛がいたというからエリート中のエリートである。この前途有望な男が、突然のように官位と妻子を捨てて出家した。保延六年(一一四〇年)、二十三歳のときである。少壮の歌人として知られており、名門の武士で、鳥羽上皇の親衛として名のあった青年の出家は、当時もかなりの驚きをもって受け止められたらしい。
 西行の出家の動機をめぐっては、古くより様々な説がある。それだけ謎が多い、というよりも人々の興味を喚起し、詮索を誘うものだったのだろう。私もまた勝手な想像をめぐらせてみる。気にかかるのは、やはり年齢である。二十三歳という年齢は、「世を儚んで」といった出家遁世のイメージからすると、いささか若過ぎはしないか。あるいは昨今の若者が、死に場所を求めてイスラム国への渡航を企てるようなものだろうか、などと思ってみたりもする。
 中世の出家遁世の背後に、浄土系の世界観や死生観があったことは間違いない。そして西行が生きた平安末期から鎌倉初期にかけて、やがて法然や親鸞によって完成される浄土思想は、最先端の前衛思想であり、出家遁世は前衛思想の実践的な側面をもっていた。すると二十三歳という西行の出家年齢にも、ちょっと違った角度から光を当てられるような気がするのだが、どうだろう?
 

Photo © Naonori Kohira

Photo © Naonori Kohira

 
 高野山とのかかわりで少し年譜的なことにも触れておくと、西行が山に入ったのは久安四年(一一四九年)前後とされる。三十歳くらいになっているから、それまでは空海と同じように諸国を漂泊しながら、いろんな寺に転がり込んで修行していたのだろう。高野山に庵を結んだあとも出入りを繰り返し、約三十年を当地で過ごしている。入寂は建久元年(一一九〇年)で、河内国の弘川寺と記録にはある。享年七十三歳。
 西行が生きた時代、世俗で起こっていたことを簡単に見てみる。まず一一五六年、皇位継承をめぐる朝廷内の内紛から保元の乱が起こる。西行が三十六歳のときである。これをきっかけに平治の乱を経て、源平による戦乱の時代に入っていく。戦火は全国を包み、壇ノ浦で最後の戦いが行われたのが元歴二年(一一八五年)、西行は六十五歳になっている。つまり彼が高野山にいた三十年間は、そっくり戦乱の時代であったと言ってもいい。仮に在俗していれば、一武将として戦いに参加することは必定だっただろう。西行の出家遁世は、戦いに巻き込まれることを避ける、ほとんど唯一の手段だった、というのは穿ち過ぎた見方だろうか。
 殺したくもないが、殺されたくもない。だが否応なしに、そうした場所に身を置かなければならない。いまでも世界の至るところに、そのような抜き差しならぬ場所があり、抜き差しならぬ境遇の者たちがいる。『平家物語』などの軍記ものを見るかぎり、西行が身を置いていた武士の世界は、私たちがヤクザ映画で目にするような血で血を洗う世界だったらしい。ほんの些細な理由から喧嘩や争論となり、そのたびに殺傷や抗争が繰り返される。親兄弟の恥を雪ぐために命を賭する。「身内」の観念は遠い一族郎党にまで及び、下手をすると生涯が、討った討たれたの復讐劇に費やされることになる。
 利発で鋭敏だった幼い西行が、こうした世界を嫌ったと考えることは、あまり無理のない想像のように思える。この世のあらゆる刃傷沙汰から逃げたい、逃れたいと願いながら成長した一人の青年にとって、空海が開いた高野山は、心のよりどころであったのかもしれない。
 

いづくにか身を隠さましいとおひても憂き世に深き山なかりせば(『山家集』九〇九)
身の憂さのかくれがにせん山里は心ありてぞ住むべかりける(同九一〇)
深き山は苔むす岩を畳みあげて古りにし方を納めたるかな(同一五一一)

 
 浄土思想に染まった若者が、現実的に出家遁世の道を探るとき、高野山の存在は遠い灯火のようにも思えたのではないか。いざとなれば、あそこへ行けばいい。いつかあそこへ身を運ぼう。そのように思い定めた者は、西行の他にも数多くいたものと推測される。
 奥之院の墓所には、名だたる戦国の武将たちの墓が立ち並んでいる。武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、石田三成、明智光秀、織田信長といった有名どころが、呉越同舟で眠っている。弘法大師の御廟があるとはいえ、もともとここは墓所ではない。空海自身は金剛界曼荼羅の壇場として構想したところだ。墓の建造がいつごろからはじまったのか、正確なところはわからない。高野山に身体の一部を収める信仰は、かなり古くからのものらしく、納髪や納骨、埋経の記録は十一世紀まで遡るという。
 そうしたしきたりに、武将たちも倣ったということだろうか。彼らはなぜ、ここに墓所を求めたのだろう。もちろん弘法大師空海を慕ってだろう。それで十分なのだが、私としては「慕う」ことの中身を、自分なりに少し掻きまわしてみたい誘惑にかられる。生きているあいだ、殺し合いに明け暮れなければならなかった者たちが、せめて死後は、暴力とは無縁の地で安らかに眠りたいと願う。敵味方を超えて、生前の門閥や身分、すべてのしがらみを捨てて、ただ人間として、さらに言えば、衰滅と再生を繰り返す草木と同等の生命として、永遠と普遍のなかに抱かれたいと願う。そんな深くもあれば広くもある願いが、弘法大師空海という一人の伝説化された人間への思慕のなかに、無意識として潜伏しているのではないだろうか。


 

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片山恭一 (Kyoichi Katayama)

片山恭一 (Kyoichi Katayama)

ライタープロフィール

小説家。愛媛県宇和島市出身。1986年「気配」にて『文学界』新人賞受賞。2001年刊行の『世界の中心で、愛をさけぶ』がベストセラーに。ほかに、小説『静けさを残して鳥たちは』、評論『どこへ向かって死ぬか』など。

小平尚典 (Naonori Kohira)

小平尚典 (Naonori Kohira)

ライタープロフィール

フォトジャーナリスト。北九州市小倉北区出身。写真誌FOCUSなどで活躍。1985年の日航機墜落事故で現場にいち早く到着。その時撮影したモノクロ写真をまとめた『4/524』など刊行物多数。ロサンゼルスに22年住んだ経験あり。

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