「愛犬を愛していますか?」という問いかけに、NOという飼い主はいないと思います。きっと誰もが「もちろん愛しています」と言うでしょう。ただ、溢れ余る愛情を存分に注いでいるから、愛犬とは最高の絆が築けている、という方程式が成立していないこともあります。愛は一杯なのに、誰もが羨むような素晴らしい関係になれないのはなぜか? 今回は、「愛情の定義」と題し、飼い主の愛犬への愛情ということを考えてみます。
可愛過ぎて
「まるで、ぬいぐるみのようで、可愛いくて、可愛いくて、どうしても厳しくなれない…。」「いじらしい顔で見つめられたら、ついつい甘やかしてしまう…。」心当たりがある人がたくさんいるのではないでしょうか。犬を愛していればいるほど、このような気持ちになりがちです。しかし、犬は自分の行動を飼い主が、“いじらしい”とか、“あどけない”と思っていることを知りません。また、自分の見てくれが、飼い主をとろけさせているとも思っていません。飼い主が自分にぞっこんで、「何をしても許される」という概念は犬には謎です。
愛犬が可愛過ぎるとこんなことも経験あるのではないでしょうか? 食卓の横でおこぼれをじっと待つ愛犬に人間の食べ物をいそいそ与える。自分のことを好きでいてもらうために、大好物のおやつを欲しがるだけあげる。いつも猫撫で声で赤ちゃん扱いをし、優しい飼い主でいようとする。心配で犬のやることなすことを目で、頭で、体で追い回す。何でも先回りして守ろうとする。しかし、そんな毎日では愛犬も息が詰まってしまいます。大切な愛犬の一挙一動が気になったり、何がなんでも守りたいと思ったりするのは、どの飼い主も同じはず。しかし、ルールもけじめもない、やりたい放題の生活や、行き過ぎた過保護は犬にとって本当の意味で幸せでしょうか? 飼い主の過保護で甘やかし過ぎな愛情表現は、幸せへの障害なのです。
犬が犬であることの大切さ
人間関係でも同じですが、自分本位で気持ちをぶつける愛は、決してバランスのいい関係につながりません。「愛する」ということは、相手を知ること、相手を幸せにするために、必要な時に必要なものを与えられること。相手を理解し、相手を見守れることだと思います。だからと言って相手が欲しいというものを与えまくり、喜ぶからと好むことだけを一生懸命にして尽くすことが、相手を思う愛ではありません。時には、眉間にしわを寄せ、厳しく低い声を出すことも必要。心を鬼にして、渋い顔でぐっと我慢するのも愛情。人間社会の中で生きる犬は、人間に100%依存して生きていかねばなりません。心身の健康を維持するのも、身の安全を守るのも、社会の一員として周りと協調し共存できるようになるのも、人間の力をかりねばなりません。そして、それを叶えてあげるのは飼い主なのです。
人それぞれ愛の尺度やその表現は違います。また、何が正しい、間違っているというのも人それぞれ違うので、愛犬への愛情を定義するのは難しいことです。しかし、犬を犬と捉えることは、犬を尊敬するということであり、それこそが犬を愛することではないかと信じます。
次回は、ドギーパラダイス!100号記念特別記事です。お楽しみに!
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