3人の起業家たち
それぞれのサクセスストーリー

当面の目標は
アカデミー賞候補作品の製作

ウエストロサンゼルスにあるイレブンアーツ社で
Photo © Keiko Fukuda

Eleven Arts
プレジデント&CEO コウ・モリ

 東京都生まれの埼玉県育ち。音楽流通系企業に勤務後、28歳で渡米。すずきじゅんいち監督と共にイレブンアーツを2003年に設立。翌年から映画製作に乗り出し、現在までに映画11本、TVシリーズ5作の製作、さらにジャパニーズアニメをはじめとする40本近い映画配給を手がけた。現在、リドリー・スコットとの共同プロデュース映画、ABC/DisneyとのTVショーなどが公開待機中。ハリウッドで活躍する映画プロデューサーの組合組織であるプロデューサーズ・ギルド・オブ・アメリカ( PGA )の会員。

アメリカには「えいっ」と来た

渡米は1999年で、18年前です。その前は、日本で音楽の流通の仕事に携わっていました。僕が勤めていた会社は、サンフランシスコからのCDの輸入盤を販売するレコードショップをフランチャイズで展開していました。もともと、音楽は好きで、自分でもバンドをやっていたんですよ。で、なぜ、アメリカに渡ってきたかというと、元々中学生の頃から世界的なビジネスをしたい、という願望が強く、それであればアメリカだ、という気持ちが常にあったからです。それでそのバンドの友人がカリフォルニア出身だったんで、まずはそこを頼って来ました。自分でも就職する前に、カナダでワーキングホリデーを体験して英語も習得していたので、(アメリカには)えいっと来るタイミングだったんですね。

最初の頃は、友達の地元のサンルイスオビスポで、一緒にTシャツを作って売っていました。当時はフェデックスの出し方もわからなかったし、タックスをどう払うのかとか、銀行口座の開け方にしても知らないことだらけ。全て友達と一緒にいて学ばせてもらいました。結果的にTシャツのビジネスでキャッシュフローができて、渡米2年でLビザを取得できたんです。ビザが取れてからロサンゼルスに引っ越してきました。そして人の紹介で、当時ロサンゼルスに住んでいたすずきじゅんいち監督と知り合いました。それが自分にとっての大きな出会いになりましたね。映画も、音楽同様に大好きでした。すずき監督との出会いで、目の前に現れた楽しそうなことに取り組もうと会社を設立、すずきさんが会長で僕は社長に就任しました。

高い評価を得た「マン・フロム・レノ」のキャストやスタッフと
(写真提供:コウ・モリ氏)

アドレナリン出まくり

手始めに日本の映画を集めてロサンゼルスで映画祭でもやってみようということになり、すずき監督の映画を中心に映画祭で上映したんですけど、結構、お客さんが来てくれて、うまくいったんですね。その延長線上で、アメリカで映画も作ってみようということになった時に、監督にプロデューサーとして動いてくれないかと言われました。現場を体験したことはなかったんですが、まずプロデューサーズスクールというコースで勉強して、本も読んで、自分なりに研究しました。そして、吉川ひなの主演の記念すべき第1作「デスライド」を送り出しました。映画製作が自分に合っていると思ったか? もう最初からアドレナリンが出まくっていました。楽しくてしょうがないですね。今でも天職だと思っています。

次の段階として、映画ビジネスではどこにキャッシュがあるのか? ということを監督と話し合って、出た答えが配給とセールスだったんですね。そこで、当時は「リング」や「グラッジ」といったJホラーが全盛期だったので、タイミング的にJホラー押しで行こう、ということになり、日本からホラー映画を何本か集めて日本以外の国、例えばアメリカはもちろんドイツやイタリアなどに売りました。

その後、すずき監督が自分の映画作りをしたいということで、イレブンアーツから離れて、2007年からは僕が1人で経営に当たることになりました。以降もお陰様で次々に新しい企画が持ち込まれています。それはどうしてかと言うと、ビジネスの理屈としては、うちが特化して物事に取り組んできたからなんではないか、と思います。Jホラーだって海外に出すことを、松竹、東映、東宝のような大手以外、インデペンデントではどこもやっていませんでした。それをうちだけがやっていた、と。その後、テレビ局も映画の海外セールスに関わるようになりましたが、僕がJホラーなどをカンヌ映画祭でブースを出して売り出し始めた時なんて、業界関係者から見たら僕は完全なストレンジャー状態でした。お前、誰だ? みたいな。あと、日本のアニメに関しても海外で劇場公開しようとする会社は、以前は一つもありませんでした。それをうちがやったわけです。日本のアニメの海外普及に関してはかなり貢献してきたんじゃないかなと感じています。

映画製作に関しては、「はりまや橋」を作ったことが大きかったですね。ダニー・グローバーも出ている作品です。その後は規模が膨らんでいって、自分が(映画界の中で)子供から大人に成長していくような感じで物事のサイズが大きくなっていきました。

「はりまや橋」の撮影現場でダニー・グローバー(左端)と
(写真提供:コウ・モリ氏)

人間力を鍛える

さらに「マン・フロム・レノ」という作品がロサンゼルス・フィルム・フェスティバルで最優秀作品賞をいただき、インディペンデントスピリットアワードにもノミネートされました。それによって、プロデューサーズ・ギルド・オブ・アメリカ(PGA )に入会することができました。入会するにはクライテリアが厳しくて、過去に製作した映画の本数、北米での劇場公開、受賞やノミネート、推薦者などいくつもの条件が課されます。このことも僕にとっては大きなステップになりました。なぜかと言うと、スクリーニングに呼ばれるようになり、そこで超大物のプロデューサーや監督、役者とも交流できるだけでなく、このPGA主催のセミナーでテクニカルなことも学べるようになったのです。PGA入会を機会に一気に仲間も知識も増えました。

これまでもそうだったのですが、これからは自分が日本人であって、かつこっち(ハリウッド)にいて、ということを活用して、日本、アジア、アメリカの状況を理解できるプロデューサーとして、そこを全面的に打ち出してやっていこうと思っています。それから、この仕事は人を納得させないといけない。人間力が重要なんです。監督はとことん突っ込んでくるから、それに対して「こいつの言うことなら」と思わせないといけません。プロデューサーって単純にお金を持って来ればいいだけじゃないんです。その点、人間力に関して、僕はいつもまだまだ足りない、と思っています。人間力を鍛えるために、本格的に改めてギターやピアノを始めたりしています。ギターは昔もやっていましたけど、「自分はプロになれない」と思ったら、そこで止まってしまうんです。自分で自分の限界を作ってしまう。だから限界作らずにどこまでいけるか、改めてチャレンジしています。まあ、実際には楽しいから、というだけなんだけど。

当面の目標はアカデミー賞候補の作品を世に出すこと。実は、後2週間くらいで出てくる脚本で、意中の監督にアプローチして来年中に撮影を終え、再来年のオスカーに持っていければと思っているところです。うまくいくかもしれません。

新作でタッグを組んだジョナス・アッカーランド監督と共に
(写真提供:コウ・モリ氏)

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