- Home
- トラベル・趣味
- アメリカ再発見(佐藤美玲)
- シリーズアメリカ再発見⑫ 南北戦争150周年 ゲティスバーグ~モンティチェロ 霊場街道をゆく
シリーズアメリカ再発見⑫ 南北戦争150周年
ゲティスバーグ~モンティチェロ 霊場街道をゆく
文&写真/佐藤美玲(Text and photos by Mirei Sato)
- 2013年6月20日
To Frederick
フレデリックへ
「『ゲティスバーグの戦場はどこですか』って観光客にしょっちゅう聞かれるんだけど、そのたびに『ここですよ』って答えているの。そうすると必ず『いや、本当の戦場は?』って聞き直されて、それがつらいわね」
ゲティスバーグのダウンタウンで、19世紀のドレスに身を包んだナンシーさんに出会った。シュライバーハウスという博物館を運営している。戦時下の庶民の暮らしを展示する施設だ。
戦争で犠牲になるのは兵士だけではない。「ゲティスバーグの住民にとって、戦が続いた3日間は悪夢だったけれど、戦の終わりはもっとひどい地獄の始まりだった」とナンシーさん。民家に兵士が立てこもって撃ち合い、切れた手足が庭に積み重なった。当時はシャワーもトイレもない。真夏の太陽の下、放置された遺体と、負傷して動けない兵士や馬の糞で、30マイル離れた近隣の街まで異臭が届くほどだったという。
南北戦争は学者や研究者によって調べ尽くされた感があるが、ナンシーさんのように庶民の視点で歴史を見直し、「無名」の人々の戦争体験を語り継ごうという動きが最近盛んになっているそうだ。
◆ ◆ ◆
ゲティスバーグを後にして、ルート15を南へ下る。数十分も走らないうちに「メイソン・ディクソン・ライン」の看板が見えた。ペンシルベニアとメリーランドの州境にあり、南北戦争以前は奴隷州の南部と自由州の北部を隔てるラインを意味した。逃亡を企てる奴隷にとっては「なんとか追っ手を振り切ってこのラインを越えさえすれば自由になれる」という象徴だった。
メリーランドに入ると西にカトクティン山脈が見える。この山のどこかに大統領の別荘地キャンプ・デービッドがある。警備上、正確な場所は地図に記されていない。時折、近隣住民に「どこの道路が何時から何時まで閉鎖されます」というニュースが流れる。そうすると、大統領か国賓が来ているのだなと分かるそうだ。
そういえば「9・11」のテロの後、このあたりの山中に秘密の地下壕があってチェイニー副大統領はそこに隠れているのではないか、と言われていた。どことなく神秘的な山で隠れる場所もいっぱいありそうだから、噂は本当だったかも知れない。
◆ ◆ ◆
フレデリックの街に着いた。運河が流れ、古い建物をうまく改装して、グルメなレストランが何軒も並ぶダウンタウン。その一角に、南北戦争の医療活動に焦点をあてた「メディスン・ミュージアム」がある。
アメリカ史上最多の犠牲者という形容詞で語られる南北戦争だが、博物館を案内してくれたデイビッドさんによると、「戦死」したのは少数で、死因の3分の2は「下痢」だったというからびっくりした。戦争中といっても、毎日戦いがあるわけではない。「入隊して仮に1500日過ごしたとして、そのうち戦闘があるのは多くて40~50日。残りは、湿った森で野営をするか、移動で行進するか」。栄養不足と不衛生から下痢になり、脱水症状を起こす。伝染病も多かったという。
アメリカ人は自分の祖先が南北戦争に従軍していたら相当誇りに思っているはずだから、実は名誉の戦死ではなく「下痢死」だったと知ったら、かなりショックを受けるのではないか? デイビッドさんにそう聞いてみたら、こんなエピソードを教えてくれた。
女優のブルック・シールズは、祖先が従軍していたが戦地で死んだ記録がなかったため、恥ずべき「deserter」(脱走兵)だったのではと長年思っていた。ところがこの博物館にきて調べたところ病死していたと分かって、名誉が守られホッとしたのだそうだ。
南北戦争は、戦地や災害地における緊急医療の発展に大きく貢献した。水も電気もまともな器具もない中でどうやって命を救うか――。この博物館では南北戦争時代の医師たちの記録を手がかりに、米軍の兵士や医療班の教育も行っている。現代でも、大地震や大災害になれば同じような状況はいくらでも起こりえるからだ。
この記事が気に入りましたか?
US FrontLineは毎日アメリカの最新情報を日本語でお届けします