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裏ななつ星紀行~高野山編 第四話
文/片山恭一 (Text by Kyoichi Katayama)
写真/小平尚典 (Photos by Naonori Kohira)
- 2015年7月5日
小説家・片山恭一と写真家・小平尚典が、開創1200年を迎えた高野山へ、旅に出た。
壇上伽藍は奥之院とともに、高野山の二大聖地として信仰されている場所である。根本大塔と金堂を中心に、西塔、東塔、御影堂、愛染堂、孔雀堂、不動堂など多くの堂塔が建立されている。現在は一段高くなった場所という意味で「壇上」と書くのが一般的だが、本来は曼荼羅道場を意味する「壇場」という字をあてたものらしい。つまり金剛界と胎蔵の両部の曼荼羅のうち、伽藍は胎蔵曼荼羅の壇場、奥之院が金剛界曼荼羅の壇場にあたる。そう説明されれば、一山の全体的な造営にも、空海の「両部不二」の思想が反映されていることがわかる。
こうした密教思想の具現化は、伽藍の配置にも見える。すなわち金堂(あるいは御影堂)を中心に据え、左右にそれぞれ胎蔵と金剛界を象徴する二基の塔を配する。とりわけ密教寺院では、宇宙の真理を具現化するものとして塔を重視する。もっとも空海の存命中には、胎蔵を象徴する大塔も完成しておらず、また西塔は後に規模を縮小して造られたために、本来意図されたであろう曼荼羅のシンメトリーはかなり崩れている。
それはともかく、空海によって設計された壇上伽藍が、壮大な立体曼荼羅だったことは間違いないようだ。彼が唐で恵果から受け継いだ密教は、大日経系と金剛頂経系の二つにわかれる。これらはもともとインドにおいて別の場所で発展したものだが、二つの体系の継承者となった恵果は「両部不二」という思想を抱きながら果たせなかった。その仕事が空海に委ねられた。もちろん理論的な作業であったわけだが、同時にそれを視覚的に具現化しようとしたところに、他の宗教家には見られない、空海の特異性があるような気がする。二つの密教経典のうち、『大日経』に基づいた曼荼羅が胎蔵曼荼羅、『金剛頂経』に基づいたものが金剛界曼荼羅と呼ばれる。この両部の曼荼羅絵図を、空海はいわば三次元へと解放し、高野山という一山全体を曼荼羅世界化しようとしたらしい。
根本大塔のなかに入ってみる。伽藍のほぼ中央に聳えるこの朱色の大塔は、空海が真言密教の根本道場(修行の中心地)として最初に構築しようとした建造物の一つである。これだけは自分の存命中に、と思ったかもしれない。しかし前述のように願いは果たせず、完成は空海の死から約半世紀後、弟子の代まで待たねばならなかった。その後、塔は何度か火事で焼失している。他の建物も、ほとんどが落雷などによる火災によって焼失し、国宝の不動堂を除いて、多くは近代以降に再建されたものだ。度重なる焼失に懲りたのか、現在の大塔は鉄筋コンクリート造りで、昭和十二年(一九三七年)に建てられた。高さは五十メートル近く、四面の幅もそれぞれ三十メートルほどある。
堂内に入って、まず目を引くのは柱に描かれたあでやかな菩薩像だろう。大塔を支える十六本の柱に十六体の菩薩が描かれている。その中央に、本尊の大日如来が金箔をまとって鎮座している。まわりを金剛界の四仏が取り囲み、さらに四隅の壁には密教を伝えた八祖像が描かれる。空海が構想した立体曼荼羅を体感するには、最適の場所かもしれない。もっとも金剛界とか胎蔵界とか言われても、私のような者にはピンと来ない。まずはこの雰囲気を味わいたい。光り輝く仏像たち、極彩色の絵、朱で彩られた柱や梁……とにかく華やかである。京都あたりの苔寺の雰囲気とはずいぶん違う。
隣の金堂にも入ってみる。高野山一山の総本堂であり、年中行事の大半がここで執り行われる。本尊の薬師如来は秘仏であり、厨子の扉は閉じられている。胎蔵界と金剛界の両界曼荼羅が、左右二対で掛けられている。この金堂も過去に六回火事で焼失しており、最後の消失は昭和元年(一九二六年)、その際に、開創当時から安置されていた本尊の秘仏七体も燃えてなくなったらしい。現在見ることのできる仏像は、高村光雲などによって刻まれたものだ。建物は昭和七年(一九三二年)に再建された。
先にも少し触れたように、遅々として進まない高野山の造営にしびれを切らしたかのように、空海は弘仁十四年(八二三年)、嵯峨天皇より与えられた京都の東寺を密教の根本道場にしようと企てる。彼としては、今日の壇上伽藍に見られるように、堂塔などの建物によって密教曼荼羅の世界を構成したかったのかもしれない。しかし現実的に、自分が生きているあいだには無理だと思ったのだろう。そこで東寺に新たに講堂を建立し、密教の彫像を収めることにする。私も以前、この講堂を訪れたことがあるが、知識のない者には、いろんなものが賑々しく置いてある、という印象だった。あとで調べてみると、大日如来を中心とした五仏(大日如来に四仏を加えて五智如来とも呼ばれる)、五菩薩、五大明王、四天王に帝釈天と梵天を加えた六天からなる二十一尊が、密教の正規の法則に従って配置されている。これらも残念ながら、空海の没後に完成、開眼された。
それにしても空海、宗教家や思想家としてだけでなく、芸術家としても相当な造形力をもっていたと思われる。東寺の講堂にしても高野山の壇上伽藍にしても、いま私たちが目にしているように視覚化され具現化されたものは、思想としても様式としても、空海以前には存在しなかった。すべては空海という一人の人間によって構想され、構築されたものだ。もちろん唐から持ち帰った曼荼羅絵図などを参考にしたのだろうが、大日経系と金剛頂経系という二つの密教体系を統合することは、一人空海の独創によるものだ。それを思想表現とともに美術表現として、あるいは建築表現として成し遂げようとしたところに、空海という人間の巨大さを感じる。
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