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バリ島紀行 第3回 海に浮かぶ贈り物
文&写真/水島伸敏(Text and photos by Nobutoshi Mizushima)
- 2015年8月5日

ウルン・ダヌ・ブラタン寺院で行われていた儀式
Photo © Nobutoshi Mizushima
バリというこの島の名前は、サンスクリット語の”BALI“という「供物」を意味する言葉からきている。つまり、島そのものが神への供物であるということだ。
ジャワから伝わってきたヒンドゥー教とインド仏教がバリの土着の信仰と混ざりあって生まれたバリ・ヒンドゥーには、三種類の寺院がある。ウルワツやタナロット、世界遺産にもなっているタマン・アユンやティルタ・ウンプルといった大きくて有名な寺院はパブリックテンプルと言われ政府が管理している。それぞれの村にはビレッジテンプルと呼ばれる寺院があり、それらは誕生、葬儀などの役割別に三つの異なる寺院から成っている。そして、バリで最も多いのが、サンガと呼ばれるファミリーテンプル、いわゆる家寺である。この家寺は基本的に各家庭にあり、お金持ちの家寺はビレッジテンプルと区別がつかないほどの大きなものもある。一方、土地があまりないような場所では家の2階に家寺を作ることも珍しくない。そして、こういったお寺はバリ・ヒンドゥーの聖地アグン山を向いて建てられている。他にも、水田や市場などの要所にはそれぞれ小さなお寺が隣接している。そのため、田舎道や小さな村を走っているときには必ずと言っていいほど視界のどこかに寺院がある。そう思うと、やはりこの寺だらけの島自体が、海に浮かんでいる一つの供物と言えるのかもしれない。
聖地アグン山。その麓には、バリ・ヒンドゥーの総本山であるブサキ寺院が聳え建つ。ティルタ・ウンプル同様にバリの人にとっては、とても重要な寺院である。この大きな寺院はもちろんパブリックテンプルなのだが、管理は政府ではなく、この辺りの村と僧侶たちにまかされている。そのため、他のパブリックテンプルはとても静かで見やすいのに対して、この寺院は少し違っていた。
まず、村の入り口で、村人たちにお金を払い、寺院へ入るためのチケットを買った。そして、参道の入り口でチケットを渡して入ろうとしたら、僧侶たちに寄付を出すように言われた。そこで、ポケットからお札をつかんで差し出すと、今度は安いと言って文句を言われた。お札と言ってもバリのルピアなので、後から思えば、確かに安かったが、寄付に対して文句をつけられるのはいい気分がしない。しかも、その相手が僧侶たちときたらなおさらである。寄付は寄付だからと言って、その場は私もそれ以上は出すのを拒むと、彼らは、ブツブツ言いだして、露骨に不機嫌な顔になった。
さらに寺院の入り口までは、1キロほどの長い上りの参道が続くため、若い僧侶がスクーターで送ってくれるという。時間もなかったので、お願いしたら後でかなりの高額を請求された。これは仕方なく払ったが、中に入ってからも半ば強制的に供物を押し付けてくるおばちゃんたちに囲まれた。さらに、何度も断っても勝手についてきたガイドまがいの僧侶が、しばらくして、ここから先は自分に50万ルピア払わないと入れませんと言い出した(バリでおよそ5千円の価値になる)。しかし、まわりの人はみんなお金も払わず入っている。なんだか興ざめしてしまい、結局、ろくに中も見ずにそのまま黙って引き返してきてしまった。その僧侶は、まさか私が引き返すとは思っていなかったようで、少しあっけに取られていた。こういった僧侶たちの振る舞いがこの寺院の価値を落としていかなければいいと思った。
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文化とは本来、以前からその土地に根付いているものと新しく他から伝わってきたものとが、影響しあい、尊重しあい、混ざりあいながら作られていくものだと思う。しかし、クタのような観光化が進んでいるところでは、土地を平らにして、その上にホテルを建てていくように、ただ目新しいものだけが残る。だから、この場所がいったいどこなのかわかりづらくなる。
最近は、レストランでも安宿でもWi-Fiが完備されているのが当たり前のようだ。私が使っている安物の携帯電話はWi-Fiもまともにキャッチできず、おかげでほとんど、鞄の中にしまったままになっていた。まわりの旅行者を見ていても、携帯やiPadなどのデバイスを常に持ち歩いていて、食事をしながらも触っている。これが今の旅の常識だとはわかってはいるが、これではせっかく異国を旅していても心は自分のいた世界に残ったままなのではないかと少し残念にも思えてきた。今回ばかりは、安物の携帯に感謝しながら旅を続けた。
こうした時代の進歩に反比例するように、人間の持っていた感覚が一つずつ失われていっている気がしてならない。旅の間、連絡をとることができなかった私の家族は、「物語の少女」のように(*詳細は第1回を)、私の様子や帰りを予知しているだろうか? 携帯も持たない私の愛犬たちなら、きっと何かを感じてくれている気がする。
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