市村恭一
アートディレクター

文/福田恵子 (Text by Keiko Fukuda)

 高度な資格や専門知識、特殊技能が求められるスペシャリスト。手に職をつけて、アメリカ社会を生き抜くサバイバー。それがたくましき「専門職」の人生だ。「天職」をつかみ、アメリカで活躍する人たちに、その仕事を選んだ理由や、専門職の魅力、やりがいについて聞いた。

「アメリカ人に日本文化を広げたい
デザインで貢献できることに喜び」

 生まれは兵庫県芦屋ですが、その後群馬に移り、高校卒業後には東京の専門学校に進学、ビジュアルデザイン科でコーポレートアイデンティや写真撮影技術を学びました。専門学校に進んだ理由は、専門技術を取得し、とにかく早く社会に出たかったからです。実際、僕は15歳の時からホテルで働いていて、専門学校時代も美術の大道具、デザイン事務所、印刷会社などの仕事を経験しました。

 もとをたどれば、小学生の頃から漫画を描くのが好きでした。友達は面白いとほめてくれましたが、自分では話にしても絵にしても特別に巧くはなく、誰でも少し練習すればできることだと思っていました。それでも、この世界でやっていきたいと自分の中で確かな手応えを感じたのは、専門学校の卒業制作でした。盲人のためのポスターを企画して制作したのです。目の不自由な人のためのポスターなので、点字と半立体で構成しました。実際に目の不自由な人に取材をして、どういう要望をもっているか、どのようなものにしたらいいのかについて考えながら取り組みました。その時にデザインの面白みというものを実感しましたね。今のこの仕事の原点になったと思います。その作品は優秀賞をいただき、しばらく上野の森美術館にも展示されていました。

 就職先は目黒にある制作プロダクションでした。カタログ、パンフレット、チラシ、CDジャケット、雑誌のデザインなどを手掛けていました。クライアントも大手広告代理店や大手企業でした。今から25年ほど前の時代で、紙媒体のみが対象でした。しかもパソコンではなく、まだ手書きでデザイン稿、写植指定をし、版下を作っていました。

 専門学校の先生が「将来はパソコンで印刷までできるようになる。入稿形式はフロッピーディスクだ。しかし、君たちが生きている間にその時代はまだ来ない」と言っていたのを思い出します。もうとっくにパソコンでデザインする時代を迎えていますが・・・。僕が就職した時には、手書きデザイナーとして仕事しやすいように机も自分で手作りしたのですが、1年後にはデザイン用のパソコンを購入するほど時代の流れは速かったですね。

 その事務所ではデザイナーから始めてアートディレクターになりましたが、23歳で独立しました。当時は手書きとパソコンでのデザインの入れ替わり時期で、両方できれば仕事はいくらでもあったのです。そこで自分でもデザインに携わりながら、編集プロダクションから雑誌を発行する出版社を経営するまでになりました。しかし、僕らが作っていたビジュアル系の雑誌がアメリカのアニメコンベンションで高値で販売されるようになったあたりから、日本の文化をアメリカに導入するお手伝いがしたいと思うようになりました。今ではアニメやコスプレが海外で受けているという認識が日本国内でも浸透していますが、当時はまだそのことに気づいている人はいませんでした。僕はそれを「ミッシングマーケット(失われた市場)」と位置づけ、2005年にアメリカに会社を設立してビジネスを開始しました。

デザインとはビジュアルのルール作り

 今はアメリカでメディアを出版しながら、印刷物の企画、デザイン、PR、ウェブまでを手掛けています。アメリカでやっていく上で、特に大きな壁は感じることなく、紹介や口コミでここまできました。私はクオリティーにこだわります。よく「市村さんはうるさいから。そこまでやらなくても適当でいいのに」なんて言われることもありますが、トヨタだって適当に車を作っていたら大変なことになりますよね。僕のように当たり前のことをやっている人に対して「適当でいい」と言うこと自体、デザインだけじゃなくて、社会全体のスタンダードが緩くなっているのかな、とも感じます。僕の場合は原則として著作権無料の写真を使ったりすることもせず、写真も自分で撮影しますし、イラストもオリジナルのものを目的に合わせて作ります。職人気質? そうかもしれません。

 そして必要に応じてデザイナーを採用する立場でもあるわけですが、正直、アメリカではなかなか使えるグラフィックデザイナーに巡り会えていません。まず、最初からパソコンのアプリでデザインを習得している人が多いので、基礎を身につけていないのです。最初からパソコンでデザインするのは、たとえるならインスタントラーメンを作れればシェフになれるようなものです。

 また、アートとデザインは違います。アートは自由です。何をやっても許されます。世界観を構築すればいいのです。一方、デザインはビジュアルとしてのルールを作ることです。数字も使います。シンメトリー(左右対称)のデザインをする場合、49%と51%ではだめなんです。きっちり50%ずつでなければならない。僕がデザイナーを採用する時は、白い紙に鉛筆と定規で、きちんと2分の1の場所に線を引けますか? と問います。また、正方形と長方形を描くことも求めます。垂直かつ水平にできないと、その人はデザイナーではありません。

 仕事の方は日本から進出してくる飲食関連企業のポスター、メニュー、ウェブなどの受注が増えました。これはいい傾向ですね。アメリカ人にもっともっと食を含む日本の文化に親しんでほしい、そのためのお手伝いができることにやりがいを感じています。また、クライアントには自分の経験に基づく知識やアイデアを無償で提供もしています。僕はコンサルタントではなくクリエイター、アートディレクターなので、コンサルティングでお金は取りません。それでもクライアントのビジネスが成功すれば、自分の仕事も長く続く、それが重要だと思うからです。

 将来の夢? 場所はわかりませんが、どこかに小さな家を建てて、そこで静かに暮らしていたいですね。でもそれがイコール引退というわけではありません。専門職ですから自分の仕事にいつまでも引退はないと思っています。

ichimura1

My Resume
●氏名:市村恭一(Kyoichi Ichimura)
●現職:出版、編集プロダクション、制作会社代表(WANANN, Inc.代表)、写真家
●前職:日本にて同様。出版社経営
●その他:「雨風を凌げる粗末な小屋、温かい食べものがあり、家族や気の合う仲間が集う。幸せとはそんなものだと思います」
●ウェブサイト: www.wanann.com

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福田恵子 (Keiko Fukuda)

福田恵子 (Keiko Fukuda)

ライタープロフィール

東京の情報出版社勤務を経て1992年渡米。同年より在米日本語雑誌の編集職を2003年まで務める。独立してフリーライターとなってからは、人物インタビュー、アメリカ事情を中心に日米の雑誌に寄稿。執筆業の他にもコーディネーション、翻訳、ローカライゼーション、市場調査、在米日系企業の広報のアウトソーシングなどを手掛けながら母親業にも奮闘中。モットーは入社式で女性取締役のスピーチにあった「ビジネスにマイペースは許されない」。慌ただしく東奔西走する日々を続け、気づけば業界経験30年。

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