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第63回 犬の十戒

文&写真/樋口ちづ子(Text and photo by Chizuko Higuchi)

Photo © Chizuko Higuchi

 家の売買を仕事にしている。

買う時は楽しい。貯金ができたから、結婚したから、こどもが生まれるから、引退するから。どのような理由であれ、新生活への期待に笑顔が弾ける。反対に家を売る時は、さまざまな理由と事情があることが多い。長年住み慣れた家、家族の思い出が詰まった家を手放すのは、生きてきた時間を置き去りにするような辛さがある。

家を売りに出す際、売り手に大きな犬がいる時は、エージェントは頭が痛い。犬は今まで飼い主からかわいがられ、平安に過ごしていた自分の領域に、ある日、見知らぬ人が侵入して来て戸惑う。当然、これまで躾けられた通りに他人を警戒し、吠え、ご主人を守るために攻撃する。家の中で飼われていた犬は、ケージに入れられたりガラージに追いやられたりするから、自分が邪魔になっていることを察知する。ストレスが溜まり、穏やかだった犬の性格が変わってくる。だから、売り手とペットにとってベストの方法を考え、短期間のうちに家を売るよう努力してきた。一番恐れるのは、犬がストレスから病気になったり、反対に買い手などの他人に飛びかかって裁判沙汰になったりすることだ。だから、ペットがいないほうがやりやすいというのが正直なところだ。

こどもたちが独立し、夫婦も老いたので日本に帰国することに決めた方から、家の売却を頼まれた。ロケーションが良く、学校区の良い地域だったので、売却は難しくない。だが、一つ困ったことがあった。黒い大きな犬を室内で飼っておられた。ネオはかなりの歳で、歩くこともおぼつかなくなっていた。せめてネオが逝くまでは家を売るのを待っていてやりたいと、相談を受けてからかれこれ半年が経った。ご主人は仕事の事情もあって先に帰国され、奥様だけが残って働きながら売り出しの時期を待っていた。しかし、これ以上待てば売る時期を逃してしまうと切羽詰まった。ネオは、まだ荒い息をしながらも生きていた。家を見たい人が来たら、私が彼に付き添うことにした。これなら事故がないだろう。私には負担になるが仕方がない。その週の金曜日に家を売りに出すことを決め、準備を始めた。

ところがである。水曜日の夜11時半に、奥様から興奮した電話がかかってきた。ネオが死んだ、と。専門病院に連れてゆくのは朝にしようかと迷ったが、病院に電話すると、死後硬直が始まると運ぶのが大変になるから、まだ温かいうちに連れてきなさい、と。一人で運ぼうとしたが重くて動かない、手助けに来てもらえないか、という電話だった。すっ飛んで行った。

ネオは好きだった居間で寝ていた。まだ、温かかった。なでてやった。その時、「ごめんね」という言葉が口からついて出た。私の心の暗い所で、ネオが早く逝ってしまうのを待っていたからかもしれない。ネオがその夜死んだのは、ただの偶然だろう。もうその時期だったのだろう。でも私には、ネオが日本にもついて行けない、この家も売られる、ならもう死んでもいい、そのほうがご主人様孝行だ、と感じたのだと思えて仕方がなかった。かわいそうなことをした。他人にしたことは、必ず自分に降りかかる。私も最後は同じ運命をたどるだろう。真夜中に二人でネオを運び、病院に預けた。誰もいない灰色のロビーの時計は1時だった。静寂に吸い込まれそうな深い夜だった。

「犬の十戒」という英詩がある。私も長年犬を飼ってきた。それで、その要約をときどき読む。

1.私の命は10〜15年くらいしかありません。2.言われたことを理解できるまで、時間をください。3.私を信頼してください。それだけで私は幸せなのです。4.あなたには、仕事や楽しみや友達があります。でも私にはあなたしかいないのです。5.私に話しかけてください。言葉は理解できなくても、あなたの声の調子で分かります。6.あなたが私をどう扱ったかを、私はずっと忘れません。7.私を叩く前に思い出してください。私には、あなたの手の骨を簡単に噛み砕ける歯があります。でも私はあなたを噛まないと決めています。8.言うことを聞かないと叱る前に、それには理由があることに気がついてください。9.私が年老いても、世話をしてください。10.私が逝く時はどうかそばにいてください。それだけでどんなことでも安らかに受け入れられます。そして、忘れないでください。私があなたを愛していることを。

泣けてくる。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう37年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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