人ごみの中にそを聴きにゆく

フロリダ、パームビーチで

石川啄木の短歌は胸に沁みる。「ふるさとの訛なつかし停車場の人ごみの中にそを聴きにゆく」。啄木は東京に出てきたものの、生活苦から望郷の思い止みがたく、ふらりと上野駅に行く。北海道や東北から来た人々、帰ってゆく人々の中に身を置き、彼らの訛のある言葉の中に故郷を偲ぶという歌である。私も18歳で故郷を後にし、貧しく殺風景な東京のアパートの一室で、城下町萩で過ごした日々や言葉の訛を思い出したものだ。

あれから半世紀経った今、米国では3年間のコロナ禍での生活から解放された人々が、夏休みをきっかけにどっと旅に出始めた。私もフロリダに転居した娘を訪ねた。

若き頃、仕事でトランク一つで全米を回ったが、見るもの聞くもの初体験で夢のような2年間だった。多くの都市を訪れたが、フロリダは訪れるチャンスがなかった。

それにしても最近の旅は様変わりした。飛行機の切符や搭乗券を片手に、掲示板を見ながら空港内をゆっくり歩き回って搭乗口を探すなどという優雅さはもうない。今は飛行機の切符から搭乗券まですべてPCで済ませ、荷物を預けない限り空港カウンターに行くこともない。飛行機の乗り換えゲートや搭乗口も、携帯に入った情報を横目に見ながら先を急ぐ。時間が余ればすぐにラップトップを開いて仕事をしたり、メールやニュースをチェックしたり。自分の日常を空港でもそのまま継続する。体は非日常の世界にいても意識は日常の中にどっぷりで、周りの風景に見向きもしない。意識の中で世界が狭くなったせいだろうか。一方、行き交う見知らぬ人々を見ながら、どこから来て、何の用事で、どこに行くのだろう、どんな人生なのだろうかとぼんやり眺めている私はきっと異常者だろう。雑踏の中でぼんやりするのが私の趣味的息抜きで、旅である。啄木の孤独と私の孤独が重なって静かな気持ちになり、力が湧いてくる。非日常の世界にトリップする旅の醍醐味である。

カリフォルニア州サンタ・アナのジョン・ウェイン空港を午後1時に出発し、約3時間の飛行でダラスのフォートワース空港に着いた。ここで時計を2時間早める。ダラスは地理的には米国の真ん中にあり、各地から飛んできた飛行機がここに集中し、人々はここで乗り換え東から西に、南から北とまた各地に散ってゆく。人々の集合地点であり乗り換え地点だから、空港は大きい。雑踏の中に女性パイロットを3人も見かけた。キリリと目立つ制服を着て、帽子をかぶっている人もいた。緊張した顔と制服姿が目立った。女性パイロットがついに出現したのだ。生き生きした厳しい顔は見ていてすがすがしい。それから約2時間半の飛行でフロリダのパームビーチ空港に着いた。トータル6時間弱の飛行と3時間の時差で、到着時には現地時間はすでに夜の10時半を回っていた。

娘が手配してくれたウーバーを待つ。地方空港のパームビーチは、夜中に着けば迎えの車に人々は乗り込み去って、私一人が到着通路に取り残された。誰もいなくなった。見知らぬ夜の街に一人で佇むのは久しぶりだ。大丈夫かな。体を固めて待っていると、ようやくウーバーが現れた。

「グレースか?」「そう、あなたは?」「ダニエル」。互いの名前を言い合い、車のプレート番号を確かめ乗り込む。キューバの青年で、キューバからの移民のようだった。英語はまだあまり話せなかったが、ちゃんとジュピターという目的地まで連れて行ってもらえた。ありがとう。娘がパジャマ姿で夜の中に立っていた。「こんばんは、来ましたよ。西の端から東の端に」。

娘の家のすぐそばに、大西洋の大海原が広がっていた。太平洋側の明るいラグナビーチに比べ、雲の勢いよく流れる空の青は少し薄く、海の色は暗い。西と東では空も海もこんなにも違う。働いている人々の動きにはっと胸をつかれた。日本人のようにキビキビ動き労を厭わない。ここの人はこういう風に働くのだな。真面目な生活が垣間見られるようだ。自分と友人と家族を愛し、大自然を愛し、のびのび生きている。旅をするとアメリカの大きさが分かる。空港の多種多様な人々が行き交う雑踏の中で、私は孤独だけれど幸せだと感じ続けた。どういうふうに生きても良いアメリカがもう、私のふるさとになっていた。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう43年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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