「Live rich life」。ピート・ハミルの言葉である。2020年8月5日、彼は85歳で亡くなった。
社会に事件が起きた時、オピニオンリーダーが出てきて事件の背景や意味を解説し、対応策を示唆してくれる。動揺する我々の行く手を照らし、不安をなだめ、立ち向かう勇気を与えてくれる。そういう人たちがたくさんいることが豊かな社会だろう。今、80・90歳代の彼らが一人二人と亡くなっていき、彼らが果たしていた大切な役割に気付かされ、もう意見を聞けないことを寂しく思う。
日本では、その役割を担っていた司馬遼太郎が逝って久しいが、今は養老孟司、五木寛之、出口治明、瀬戸内寂聴、坂東眞理子諸氏だろうか。自分が仰ぎ見る人が今、どこかで同じ時間を生きていると思うだけで、心強い。
米国では誰だろう。私には、ピート・ハミルがその一人だった。彼がニューヨークのどこかに住んでいると思うだけで、安心した。昨年の10月にCBSテレビ番組に現れた時は、久しぶりに彼の今の姿を見、声を聞き、食い入るように画面を見つめた。変わらぬ落ち着いた説得力のある話し方、含蓄のある内容と低い魅力的な声は健在だ。揺るぎない自分の寄って立つ所が、簡潔で平易な英語で語られる。平易だが現実的で深い意味のある言葉の数々は、説得力がある。こういう人がいる限り、米国は大丈夫だと思わされた。
珍しく彼の住空間が背後に映っていた。窓際にイーゼルが立ち、周囲に絵の具が散らばっている。ニューヨーカーなら誰一人として知らない人はいないというほど、絶大な人気を誇っていたコラムニストでありジャーナリストだったから、部屋は本で溢れている。生活感のある雑然とした住空間がいかにも作家の住み家らしい。ここで数々のイラストが描かれ、物語が生まれたのだろう。彼が身近に感じられた。思っていた通りだ。自然体で本物の人だ。
今では天井が見えない超高層ビルの摩天楼のマンハッタン島。だが、かつてはヨーロッパからの移民であるオランダ人、アイルランド人、イタリア人、ユダヤ人などが、日々の糧を求めて働く生活の場だった。ピートはアイルランド系移民の親を持ち、7人兄弟の長男としてここで生まれ育った。経済的理由から高校を中退し、カレッジを中退し、海軍除隊後は美術を学んだ。その経歴を見ただけで、決して順調な人生の滑り出しではなかったことが分かるだろう。
のちに作家となった彼は、だからこそ、必死に生きる名もない人々の生活感情をていねいにリアルに描く名手となった。現実的な視点と、シンプルで分かりやすい散文で物語を書いた。一瞬のスケッチに凝縮された風景から、背後の奥深い人生を浮かび上がらせる。新聞や雑誌、タブロイドなどの活字が人々を繋いでいた時代だったから、彼の書いたコラムは人々に大きな影響を与えた。
数々の大新聞の編集長を務め、20冊以上の本を出し、暗殺されたロバート・ケネディ上院議員の親友で、彼のキャンペーンにも参加した。射殺現場となったロサンゼルスのアンバサダーホテルのキッチンの通路にいて、彼の最後を看取った。女優のシャーリー・マクレーンや、なんと、ジャッキー・ケネディ・オナシスのデートの相手でもあったとか。
彼は学校教育をまともに受けていないからこそ、彼が宝の山と呼ぶ図書館で本を読み漁り、臨時雇いの新聞社で職人的に文章力を叩き上げられたと話していた。そこから彼の新聞人としてのキャリアが開けた。彼の情熱が、あるいは何かが、群を抜いていたからだろう。彼はいろいろな人がいて、すべての人がニューヨークという町を魅力的にしていると語る。
山田洋次監督の映画『幸福の黄色いハンカチ』も彼が書いたコラムが原作。刑期を終えた囚人がバスに乗って故郷に帰って行く。妻に、まだ自分とやり直せるなら町の入口にある樫の木に黄色いリボンを巻いておいてくれと頼む。もしなかったら自分はバスに乗り続け、遠い町に行くと。ついに故郷の入口に着くと、樫の木にはなんと無数の黄色いリボンが巻かれていたという感動的な話だ。しかしこの話は、ピートが書いたからこそ人々の心を掴んだのだと思う。名もなき人々に対する彼独自の優しい眼差しが文章に滲み出たからこそだ。
彼は、昨日より今日がよりベストの自分になるように、より本物になるように、よりタフな存在であるように生きてみたらおもしろいよと、静かに語っていた。84、5歳になる人がである。33年間連れ添ったのは、第一級の硬派のジャーナリスト・青木冨貴子さん。
Being tough. Live rich life。彼の低い声とともに永く私の胸に残るだろう。
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