第6回 マラソンは極苦楽

文&写真/樋口ちづ子(Text and photos by Chizuko Higuchi)

 苦手なものは数あるが、一番を挙げろといわれれば運動である。自慢じゃないが運動神経ゼロ。これは今に始まったことではない。子どもの頃からだから年季が入っている。こんな私がひょんなことから、マラソンを始めることになった。

 娘は中学の頃からクロスカントリーを始め、成人した今も続けている。マラソンに必要なのはランニングシューズだけ。道具もいらない。好きな時間に気の向いた所を走ればいい。一人で走れば瞑想できるし、数人で走れば苦楽を共有して連帯感が生まれる。なんともフレキシブルな運動である。こんな経済的な運動を選んでくれた娘は親孝行というべきか。読書に疲れた時、思考が停滞した時、社会で落胆した時、走ればふき出す汗が、胸に溜まったおりまで洗い流してくれる。

 その娘から一緒に走ろうと誘われたのは何年前だったろう。5Kランといわれる簡単なものという。ところが会場に着くと驚くほどの人の波でおまけに若者ばかり。思わず、ギョ! が、これが意外や意外、とても楽しかったのだ。参加者は本当に走る気あるの?と疑いたくなるほど、遊び半分。その分、ウサギとカメではないが初心者の私もなんとか追いつけた。沿道にはクラシックカーが設置され、そこから大音響でロックがかかる。途中にはライブの舞台もあって、ここでは皆さん足を止め、やんやの拍手喝采。何もかも忘れて楽しく走る人になる一日が見事に演出されていた。マラソンにすっかりはまってしまった。

2009年に参加した東京マラソン Photo © Chizuko Higuchi

2009年に参加した東京マラソン
Photo © Chizuko Higuchi

 勢いづいてハーフマラソン、フルマラソンとエスカレート。5年前のフルマラソンはユニバーサルスタジオ近辺から出発。参加者の多様性はさすが人種のるつぼのアメリカだ。皆思い思いのユニフォームや衣装ではりきっている。エルビスプレスリーの衣装で、トランジスタラジオから音楽を流しながらのマラソン人もいた。そのサービス精神の旺盛さ。とことん楽しむ才能。アメリカ人は遊びの天才だ。これが一般人のLAマラソン風景だ。

 コースもまた興味深い。最初はビバリーヒルズの高級住宅地をぬける。裕福層が前庭でパーティー。ウィルシャー沿いは活気のあるコリアタウン。チョゴリを着て応援する婦人達を横目に、メキシカン街に入る。驚くほど荒れている。LAのダウンタウンの一等地。なのにまるで何十年も前から忘れ去られたゴーストタウンのようだ。未だに泥の道がある。普段は車で通過するのさえ避ける地域を、自分の足で走るのは新鮮だった。その地域の空気や風や匂いが身体の中に染み込む。貴重な社会勉強だ。

 ハーフまでは誰でも何とか持ちこたえられる。つらいのは、この後だ。先の見えない15〜20マイルまでが最もつらい。道端にへたり込んで泣いている若者もいる。無理もない。このまま走り続けるのも、ここで退くのも、どちらも苦痛以外のなにものでもない。一旦、足を動かすのを止めれば、もう硬直した足は一歩も前に進まない。前進するか、止めるか、迷う。迷いながら走り続ける。

 こんな泥沼の苦しさの時は一粒のブドウの実が救いになる。メキシカン街では冷たくひやしたブドウを入れたボウルを子供に持たせ、道の真ん中に立たせてくれている。これ、とてもありがたい。マラソン人はこんな倒れそうな時でも順番を待ち、たった一粒だけ取り、ありがとう、といって走り去る。片手一杯にほしいと思っていた私は恥じた。一人が沢山取れば後の人の分がなくなる。

 マラソンはよく人生に例えられる。一度走ってみて下さい。いろいろなものが見えます。あなたの身体の音に耳を澄まし、心の声を聞いて下さい。そうそう、ゴールを切った気分は最高です。極苦楽です。半分に切ったバナナがそのごほうびです。うまいよ、このバナナ。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう37年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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