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- 第53回 家
家は即換金できるというものではなく、買い手がついて初めて商品としての価値が発生するから、買い手がつくかどうかということがとても大切になる。つまりはどんな家が買い手の購買欲をそそるかが、キーポイントになる。
誰でも大きくて、質の高い、きれいな家に住みたい。高級車に乗り、世界旅行をしたいというのが、万人の夢の平均値らしい。大きい家がほしいといっても、大きさには上限がある。これ以上はいらないという一線はあるような気がする。
人間は知らないものは怖い。並外れた富は持っていない者を威嚇する。到底手の届かない豪華絢爛な家は人を威圧する。知らない世界に対する恐怖である。チャンスがあれば、挑戦するような気持ちで中に入り、その回数を増やし、内部を冷静に隅々まで見てゆく。高額な物件は必ずそれに値する素晴らしい所がある。大海原が目前に広がる崖の上の豪邸、飛んでいる飛行機が自分のいる位置より下に見えるハイライズのコンド。見れば、なる程、これが価格を押し上げているのだな、と納得できる。と同時に不必要で無駄な空間があることも知り、どの物件も長所、短所が混在することを知る。その時初めて、大きな家も小さな家もそれぞれに特異性があるだけで、良い家というのは、大小にかかわらず、温かくて美しいことに変わりはないことを再確認する。家で一番大切なものは何なのかがはっきりと見えてくる。
人種のるつぼの米国だが、カリフォルニアも世界各国からの人々が雑多に隣近所に住んでいる。家は生活の場だから内部はそれぞれの人種が背負ってきた文化をそのまま映す。建国者を祖先に持つ米国人の住宅を基準とするなら、彼らは家にお金をかけ、台所も浴室も上等にアップグレードしているのが平均である。彼らにはそれは贅沢ではなく、そうしなければいけない必須事項だ。立派な家具、壁には絵の数々、それらの色や形すべてが調和するように、インテリアデコレーションに細心の注意を払っている。インテリアの歴史が長く、その能力は我々にはとても真似ができない。一方、東洋系の家は質実剛健。清潔でキチンと機能していれば、今あるもので不自由しない限りそれを壊してまでアップグレードしない。もったいない、の文化である。日本人の家は、家具は上質だがおとなしく、自然の木の色が好み。全体的な印象はガランとして、米国人の目には物足りない。
一方、中近東の人の家の家具はまるで王様が座るような、飾り立てた大きなものである。家具の間を縫って歩かなければならない。あるペルシャ系の方の家は、床には模様が違う絨毯が何枚も敷き詰められ、壁にも一片の隙もなく絨毯がかかり、壁が見えない。窓は模様のある薄い布で覆われ、足元も壁も絨毯だらけで頭がクラクラした。この部屋の真ん中に老婦人が穏やかな笑顔を浮かべて座っていた。素敵なお部屋ですね、と声をかけて拝見してゆく。手製の絨毯は何人もの人が何カ月もかけて織ってゆくから高級品で、それを多数持っていることは富の象徴らしい。
私はどの家を見る時も必ず玄関先で靴を脱ぐ。真っ白な絨毯なのに、土足で入ってゆく神経は持ち合わせていない。何人もが歩けば絨毯は汚れる。細い高いハイヒールを履いている女性の中には決して脱ごうとしない人がいる。そのまま絨毯を踏みつけてゆくから、小さな穴がポコポコできる。家の持ち主がそれを見たらなんと思うだろう。素足で歩いてみれば、床が斜めになっている、きしむ、急にへこむ、温かい、など足裏から色々な情報が入ってくる。外見はアメリカの家、内部は多様な文化が反映された千差万別の家。アメリカの多様性の醍醐味を見る思いだ。
大きな家に住みたいなら、夢に向かって頑張ればいい。十分に満喫した後は大体の方は本来の自分がいた場所に還ってゆく。日当たりが良く明るい部屋、風が通り抜け、窓の外に緑が見え、小鳥がさえずり、花が匂う。もう自然のままがいい。愛しい人や愛する物に囲まれ、自分のままでいられる空間。これを家と呼ぶのだろう。
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