第66回 カーネギーホールで第九を歌う

2018年12月2日、カーネギーホール

あれがカーネギーホールだ。実物は写真で見るよりはるかに重厚で美しい。威厳に満ちた風格を漂わせ、どっしりと建っている。1960年代、マンハッタンに開発の波が押し寄せ、由緒あるビルが次々に壊され始めた。見かねたジャクリーン・ケネディが各界の有力者に働きかけ、保存運動を始めたのだという。そのおかげで、今も歴史的建築物があちこちに残っている。

下から見上げてもてっぺんが見えない、無機質な超高層ビルが屹立する冷たい雰囲気のマンハッタン。その町角に何百年もの年月を耐え抜いた美しい建築物が現れると、ほっとする。カーネギーホールもその一つ。ここで、数々の世界的名演奏が繰り広げられてきた。明後日には、あそこで歌う。何も知らずに合唱を始めた9年前には、この日が来ることなど夢にも思わなかった。

12月3日、カーネギーでベートーベンの第九を歌うというプロジェクトに応募して、ニューヨークにやって来た。着いた翌朝から近くのホテルの会場で猛練習が始まった。最初に前後左右の人と自己紹介。私の右隣はニュージーランドから来た初老の女性。左はケンタッキーからの熟女。前はカナダから来た比較的若い人。後ろはなんとドイツから。彼女たちがこれからの数日間、ソプラノの私の隣人となり、仲間となり、同志となる。分からない時は互いに聞き合い、助け合う。参加者はなんと全米各州、カナダ、ドイツ、ニュージーランド、香港、日本、台湾と、世界6カ国から総勢240名。ドイツ語で一緒に「歓喜の歌」を歌う。

特訓は朝8時半開始、夕方5時まで。マエストロ、グリフィスがプロに要求するスキルをアマチュアに叩き込む。緊張するが、これがおもしろい。人が普通に歌う声はメゾフォルテの強さ。そこからピアニッシモ、メゾピアノ、フォルテ、フォルテッシモ、クレッシェンド、デクレッシェンドと、すべての声の大きさを彼の指示通りに自由自在に変えて歌うことを要求する。彼の頭の中にある「歓喜の歌」が、我々の声を通して少しずつ形作られる。

コンサート当日は、オーケストラとソリストとの合同リハーサル。憧れのカーネギーホールに入れる。演奏者専用の入口のセキュリティは厳重そのもので、支給された名札がなければ入れない。裏方の人々が優秀そうにキビキビしている。

建物のデザインは古いままに保存してあり、控室は4階か6階で狭い階段を上らなければならない。各階の隅に監視人がいる。控え室は小さいがトイレの数は沢山あり、キチンと改築されている。中で舞台衣装に着替えられるように清潔で広い。米国には会員制クラブがあり、そういう所には共通した雰囲気がある。建物のメンテナンスが良い、働いている人の質が良いことだ。誰にでも丁寧で、どんな要求にも応えてくれる。働いていることに誇りがある落ち着いた態度が気持ち良い。さすがカーネギーホールだ。

オーケストラとソリストの真剣な音合わせに、コーラスの人たちも熱心に耳を傾けている。目の前の一流の音楽家たちのやりとりから沢山のことが吸収できる。耳や目や体を通して得たものは大きい。百聞は一見にしかずである。

2804席ある客席は、舞台に非常に近い印象を受けた。上品で親しみが持てる内装。舞台へと続く大きなドアを通る時には身震いした。沢山の名だたる演奏家がこのドアから舞台に出たのを、Youtubeで何度見たことだろう。自分も今、同じドアから舞台に上がる。これが幸せでなくて、何であろう。

いよいよ開演。満席だ。切符はSold out。曲はコーラルファンタジーから始まり、第九の演奏に続く。舞台の上で合唱の出番まで緊張の面持ちで待つ。周囲の仲間の緊張感まで伝わってくる。皆、同じなのだ。私たちは皆、同じなのだ。バリトンのソロが高らかに歌い始めると、240名が立ち上がり合唱が始まる。音楽が流れ始めたら、もう別世界である。音楽が一人で歩き始める。

第九は、最後に階段を一気に駆け上がるような爆発的な終わり方をする。そしてナタで振り落としたように、大音響がスパッと停止する。完全な静寂が来る。すべてを内包するこの静寂を、皆で聴く。憑き物が落ちたように我に返り、仲間と抱き合う。「やったね私たち」。

夢を追い続ける。それが生きている証。死ぬ時はたった一人だ。これで良かった、と感謝して死にたい。やればできたのに、どうしてしなかったのだろうと、後悔だけはしたくない。夢を追いかける。私にはそれが生きると同義語だ。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう37年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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