窓辺の花たち

大変な誤算があった。いつか、いつか、きっと幸せになれる時が来る、と呪文のように唱えながら、米国生活に挑戦し、肉体的、精神的苦痛に耐えてきたつもりだった。そして40年が過ぎた。40年といえば、長い年月だ。なのに、いまだに働き続けている。喜ぶべきか、悲しむべきか。働けるのは良いことだよ、と慰めてくれる方がいる一方で、クルーズに行ったとか、孫自慢とかを聞いて、羨ましくないといえばウソになる。そして、そう思う自分をダメだな、と思う。

もういい年になったので、平均並みに貯蓄はある。大病をしない限り、経済的な心配はない。これは、米国生活をほぼゼロから始めた私には、天国である。月末のモーゲージが払えるか、車のローンが払えるか、クレジットカードは払えるか、こどもの学費は払えるか。こんな心配を何十年も続けてきた。若い方には、今その真っ最中だという方も多いだろう。今の私は、月末の支払いはないのに、月末になると無意識にチェックブックの残高を調べていたりする。ふと我に返り、ああ、もう心配しなくていいんだ、と自分に言い聞かせ、幸せをかみしめる。これだけで私には、天国だ。天国のはずだ。

ところが近頃どうも、気が晴れない。沈む。あらら、こんなはずではなかったのに。仕事がある日は良い。集中しているから、ほかのことは忍び寄らない。しかし、仕事を終えた後、じわじわ沈む。以前ほど楽しくない。

もともと小さなことでも幸せになれる能天気な性格なので、自分のこの変化に驚いている。どこかで、老後は3つの「し」があれば幸せだと、聞いたことがある。仕事、宗教、趣味。全部ある。交友関係も広い。誰とでも、どんな話題でも、興味を持って話せる。そんな人間が気が沈むのだから、同年配のほかの方はどうなのだろう。退屈で気が沈むという厄介なお化けがふわふわ近寄ってくる。

これは、フィジカルの問題でもあるだろう。年を取れば、若い体が持っている自然の力がだんだんと失せてくる。どこかが痛いのではない。体力が、はっきりいえば生命力が衰える。鬱が日常になる。これは大変だ。これから先、体はどんどん衰えてゆくのだから。若い時は、どんなに過酷な状況でも苦ではなかった。体に力があるから乗り越えられる。心配ごとが無くなった今は天国のはずだ。なのに、このうっとうしさは何なのだろう。

物忘れがそれに追い打ちをかける。数日前、Costco の駐車場で自分の停めた車が探せず、ウロウロした。いくら探しても見つからないので、誰かに盗まれたのでは、と疑い始めた。その時、後ろから来た中年女性が、見つからないの、どの辺に停めたの?と声をかけてくれた。二人で探しても、なかなか見つからない。やっと大きな車の影になっていた自分の車を見つけた。見つかるまで、その人は一緒に探してくれた。

それから2日後。今度は立場が逆転した。Trader Joe’sでトランクに買った物を入れていると、初老の女性から、あなたの車、本当にあなたの?私の車のように見えるけど?と声をかけられた。私の車の周りをぐるりと回り、色も形もタイヤもみんな私の車そっくりよ、と繰り返し言う。私が彼女の車を盗んでいるのではないか、と疑っている様子だ。すぐに、彼女は自分の車が探せなくなったのだと分かり、今日はどこに停めたの?と聞き、駐車場を一緒に歩いて探してあげた。今度もなかなか見つからない。恐縮した相手がもういいわよ、と言ったので、2日前、私も自分の車が見つけられなくなったのよ、と話した。ようやく、遠く離れたレストランの駐車場に彼女の車が見つかった。私を疑わなくて済んだことに、安心したような晴れやかな笑顔になった。

その日は寒い日で、店の前で小さな赤子を抱いて地面に座った若いお母さんが、物乞いをしていた。いくらかをあげた。右手で赤ん坊を抱え、広げたかじかんだ左手の中には数ドルが千切れるほどきつく握りしめられていた。いろいろな人生の時がある。

若い時に苦労しても、頑張れば最後にはこれで、まったく安心できる幸せな所に行き着けると信じていた。現実はそうではないこともある。どこまで行っても、違う不幸の兆しが忍び込む。願わくば、誤算の不幸に立ち向かう気力を最後まで失わないように、豊かな日々を生きたことだけは忘れないように、鏡に映る皺だらけの老いた自分に、言い聞かせる。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう37年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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