第37回 モネの庭

文&写真/樋口ちづ子(Text and photo by Chizuko Higuchi)

 本当はゴッホが亡くなったあの黄色い家に行きたかったのに、乗るツアーバスを間違えた。成人した娘と2週間パリで過ごした時のことである。フランス語をもっと勉強しておけばよかったと悔やむが、後の祭りである。言葉がさっぱり解らない。

 しかし、同じ画家の家だ、ま、いいか、といった適当さで、結局はジヴェルニーのモネの家に行くことになった。といっても、もう走り出したそのマイクロバスに乗っているのだから仕方がない。気を取り直し考えると、最初に模写した絵がひまわりが咲き乱れるモネの庭の絵だったことを思い出した。

 油絵を勉強する時、まず構図と色作りの基礎を学ぶ。赤、黄、青、3色のみを混ぜ合わせ、全ての色を自分で作る訓練。それを終えると、次に名画の模写になる。全く同じ絵を真似て描くことに何の意味があるのだろうと半信半疑だったが、不思議なことにこれが目からうろこの体験だった。画家がどんな色を選び、どんなタッチで描いているか、そっくりなぞると、画家の心象風景を疑似体験する錯覚にとらわれた。線と形にこだわる日本人の絵はどうしても平面的で硬くなる。しかし西洋人はいつも縦、横、奥行きの3面で形を捉えるから立体的だ。そういう体質の違いがある。モネのひまわりの庭を描きながら、実は彼が捉えようとしたのはひまわりの庭ではなく、降りそそぐ太陽光線であり、庭を渡る風であることに気付かされた。その庭をこれから訪れるのだと期待が膨らんだ。

 モネの家に着くと観光客で一杯だった。家の売買を本業としているから、どこに行っても、まず最初に建築物が目に入る。歴史的価値より先に建物を何の思い入れもなく冷静に見るクセがついている。フランスの古い建物は小さい。米国なら3階建てになる高さの建物の中に4階あるといってもいいだろう。窓は縦長で小さいからその小さい建物に良くマッチし、写真に写すと実物より大く見える。目の錯覚だ。

 モネの家はピンクの壁にモスグリーンの窓が魅力的だが大きくはない。生涯たった1枚の絵しか売れなかった極貧のゴッホに較べ、当時から名声を得た彼は比較的裕福な暮らしをし、文化人が集まるサロンもやっていたらしい。が、その居間も大きくはなく、屋根裏の寝室のベッドの小ささからすると、彼は小柄な人であったろう。あらゆる壁に浮世絵が飾られていたが、当時、モネたち印象派の画家に強い影響を与えたことは日本人として誇らしかった。

 台所は大きく、そこから広い庭に出る。庭は遙か彼方まで延々と続く。あらゆる花が咲き乱れた庭を散策するうちに、ハタと気付いた。この広大な庭にはほんの少し、傾斜がある。平らではない。彼方まで歩いた先の一番下に有名な睡蓮の池があった。やっぱりだ。この土地は傾斜している。だから水は少しずつ下に流れ、最後に水溜りとなり、池になったのだ。

睡蓮 Photo © Chizuko Higuchi

睡蓮
Photo © Chizuko Higuchi

 これは私には驚きの大発見だった。なぜなら平らでない土地は用途が限られ、不動産の価値としては低い。つまりモネが買った時、街から離れたこの家と土地は大変安かったに違いない。使い物にならない土地を庭師でもあった彼が設計し、手をかけ、長い歳月を費やして夢の庭を創り出したのだ。下から上を見上げると遥か彼方の高台に彼の家が見えた。私の模写した庭の絵は、自然の傾斜が遠近法の効果を倍化させ、魅力的な構図の絵になっていた。現実にこう見えたのだ。

 訪れた8月末はダリアの花が今を盛りと咲いていた。大勢の観光客がこの庭を散策し、愛し、ごったがえす土産物屋で落とす外貨は莫大なものだろう。時に画家は死んで大きな利益を国にもたらし続ける。

 観光客が去った夕暮れ、まだ誰も来ない早朝に、庭を耕し、大量の花を植え替え、水を撒く複数の庭師がいるに違いない。しかし、傾斜のある価値のない土地を、最初に夢の庭に創り変えたのは、一人の画家の情熱である。美しいものは、たった一人の熱狂から始まる。足の裏に土地の傾斜を感じながら、私はモネの熱狂を思い続けて、歩いた。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう43年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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