第41回 スーザンのベンチ

文&写真/樋口ちづ子(Text and photo by Chizuko Higuchi)

 大平洋の大海原が目前に広がるラグナビーチの高台。ここは私が一番好きな場所。陽光が天から降りそそぐ。真っ青な海は水平線まで吸い込まれるようだ。頭上の青空はそのまま宇宙へ舞い上がって行けそうだ。眼下には沖から押し寄せる波が岸壁に白く砕け、いっきに岸に迫ってくる。波が刻む一定のリズムを聞きながら、地球の大きな波動に体が飲み込まれる。宇宙の一部に溶ける心地良さがある。ラメール、母の胸に帰る安心感と同じだ。

 ここに海に対峙するかのように、海に向かっていくつものベンチが設置されている。私は考えごとをする時、このベンチに来る。輝く海に向かい背筋を伸ばす。胸いっぱいに潮風を吸う。ああ、懐かしい潮の香りだ。顔に当たる海風が心地良い。中学、高校時代は故郷の萩の海岸をあてどもなく歩いたものだ。そして外国に行きたいと夢見ていた。

 あれから45年が過ぎた。顔には皺が重なり、白髪は隠しようもなく、足は細くおぼつかなくなった。鏡の中には一人の老女の姿が映っている。けれど、老いた体の中に18歳の私がいる。

 夏が終わり、観光客が去っても海は変わらず波のリズムを刻み、かもめは悠々と空を飛ぶ。人で溢れようと、誰も来なかろうと全く変わらない自然。私はこういう人の人気を超越した存在が好きだ。

 ある時、ふと気がついた。ベンチの背もたれに全て寄付者のネームプレートが打ち込んであることに。いつも座るベンチにはこうあった。

Susan Schulte 5/18/1953- 9/8/1988
Live fully, give unselfishly, love unconditionally. Down to the sea again in peace. We love you.

海に向かうベンチPhoto © Chizuko Higuchi

海に向かうベンチ
Photo © Chizuko Higuchi

 目を見張った。スーザンはたった35歳で亡くなっていた。海の事故で亡くなったのだろうか。スーザンの2倍近い時間を生きた幸運な自分。彼女が生きられなかったその時間を私は有意義に過ごしただろうかと、ふと思った。

 他のベンチのプレートも気になり、一つ一つ読んでみた。70歳の天寿を全うした人もあるが40歳、50歳代で亡くなった人もあり、60歳代で亡くなった人が意外に多かった。家族や友人が故人を偲びベンチを寄付したのだろう。

 私にも海で危うく死と隣り合わせになった経験がある。故郷の萩は阿武川の中に出来た三角州にあり、その川が海と合流する所に指月山があった。その山を背景に毛利公の城跡がある。城の外堀が深く速い流れの運河になっていて、それも同じ所で海に合流した。そこは海流の流れが変わる危険な場所だった。その隣に菊が浜という美しい海水浴場があり、泳ぎに自信のあった私はある日、どんどん沖まで泳いでいった。気が付いた時には沖に来すぎていた。振り返ると荒い海面に岸が見えない。私は慌てた。何かの判断を誤ったことを悟った。慌てて引き返そうと泳ぎ始めた時だった。なんだかおかしい。泳いでも泳いでも先に進まずどんどん沖に流される。足元の海流がものすごく速く冷たいのがわかった。今までの海と違う。私は運河から沖に流れる海流のうねりに巻き込まれてしまっていた。泳げど泳げど流されるばかり。体が冷えて硬直し沈み始めた。海は突然死の世界に変わった。

 辛うじて頭だけを水面から出して考えた。岸に向かって斜めに泳いでみよう。最後の力を振り絞って泳ぎ始めた。長い恐怖の時間を死に物狂いで泳いだ。ついに海水浴客の遊ぶ声が近付いた時、それは天使の声のように聞こえた。帰れた。海岸に足が付いた時、温かい涙が溢れた。涙を海水でぬぐった。

 時々、自分の日常を俯瞰してみる非日常の空間に行きたくなる。流される自分を取り戻すためかもしれない。肉体は少しずつ老いても、何事にもひるまず、人としての王道を正々堂々と歩もうと思ったあの18歳の自分に、出会うためかもしれない。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう37年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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