12月は庭の花も枯れ、外の楽しみは失せるが内なる楽しみが待っている。その一つがモミの木市場。入荷したばかりの木々は枝を空に突き立て、あの体の中を駆けぬける清々した木の香りを放つ。香りに誘われ沢山のクリスマスの思い出が蘇る。
若い頃は食べるだけで精一杯だったから1本20ドルのモミの木さえ、買おうか買うまいか悩んだものだ。買った時の嬉しさは格別だった。飾りは高価だから、手元にあるガラクタをくっつけて大満足だった。美しい飾りを半額セールで買った時も嬉しかった。こうして一つ一つ欲しいものを手に入れた体験は私たち共通のものだろう。いつかは背の高い大きなアーティフィシャルツリーを買いたいと憧れた。数年後に手に入れ、飾りも揃い人並みのツリーを立てた。
しかし、人間は贅沢なものである。一旦、物欲が満たされると、今度はごちゃごちゃした飾りがうるさいと思うようになった。飾りを取り、金の玉だけをつるした。
それでも、豪邸の豪華絢爛な飾りにも憧れ続けた。米国には住んでいる世界が違う人たちがいる。クリスマスの時にだけ、彼らの世界をかいま見させてくれる。近所の高級住宅地は豪華な飾りつけで有名だった。夜は各家の居間のカーテンが開き、煌々と照らされた光の渦の下、夢のような世界を見せてくれる。寒い屋外からそれを息を呑んで眺めたものだった。
星、ベル、赤い玉、杖、ヒイラギ、キャンドル、リボン、靴下。実はこれらの飾りには深い宗教的な意味があるそうだ。それらの飾りを毎年一つ一つ増やしていく。だから飾りにはそれぞれに家族の思い出がくっついている。これは誰から何時もらったものとか。その蓄積された思い出がクリスマスツリーを完成させる。モミの木の上に愛の歴史が残る。その目に見える生きた時間を祝う。
思い出は沢山あるが、いつも思い出すのはたった一つの光景である。それは安価な店、ターゲットのガーデンショップだった。その年、私は既にモミの木を買っていたが、その香りを嗅ぎたくて、いつもそこを通った。クリスマスイブの日に木はやっと半額になった。売れ残りの木はさすがに勢いが失せ、枝も枯れ始めていた。イブだから夕刻6時頃にはもう店じまいが始まった。その時、レジに父子が並んでいた。小さいモミの木を二人で持っていた。疲れ切った顔で眉間に皺を寄せた父親がモタモタと紙幣をポケットから出していた。男の子は今にも泣き出しそうな顔をしていた。あきらかに怒っていた。イブの日までモミの木を買ってくれなかった父親に怒っているのだろう。支払いが終わると、この子は父親をうながして二人は木を持って走り始めた。早く帰って木を立てたい気持ちが溢れていた。その姿に遠い昔の自分の姿が重なった。母親に正月用の新しい下駄を買ってくれと下駄屋で泣いてぐずった。私は心の中でこの男の子に言った。大丈夫だよ、まだまだ時間はあるよ。間に合ったじゃない。お父さんに怒るんじゃあないよ、と。
命の最後は誰にも来る。老いた先は大きな家も高級車もいらなくなる。介護施設に入れば、自分一人が寝られるだけの小さなベッドと下着の入った小さなタンスだけになる。そのタンスの上に家族の写真、学校の卒業写真、子供の誕生と親の葬式の写真、ペットの写真が並ぶ。写真が過ぎた一生分の思い出を語る。最後に残るのは、この思い出の量だけなのかもしれない。この写真の傍にも小さなモミの木が置かれる。小さな豆球もチカチカする。小さいけれど、思い出に溢れた本当のクリスマスツリーである。これが解かるまでに私は60数年という歳月を生きてきた。
命の最後の日まで、笑顔でいたい。自分ができるだけのことをし、失敗にひるまず、後悔に打ちのめされず、生きたい人生を歩み続けたい。あきらめない内なる強さを持ちたい。どんなクリスマスツリーの上にもそれぞれ大切な思い出がある。それを見通す内なる目が曇らないように生きたい。
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