「日本の伝統文化、歌舞伎を日本人にも
外国の人にも親しんでもらえるように」
- 2017年1月1日
- 2017年1月号掲載
「歌舞伎IIワンピース」のハリウッド上映会で
解説を務めた歌舞伎研究家・翻訳者
大島明マークさん
11月末、ハリウッド恒例のクリスマスパレードが行われた日、中心地にあるチャイニーズシアターで、市川猿之助主演の舞台を映画にした「歌舞伎IIワンピース」が上映された。同上映会で解説者を務めたのが、コロラド州生まれの日系二世、大島明マークさん。彼は東京をベースに活躍する歌舞伎の研究家であり、翻訳者、さらに清元節の語り手として歌舞伎の舞台にも長年立っている。日系人が日本の伝統芸能の専門家であることに興味を惹かれ、上映会の前日、大島さんに会って話を聞いた。
大島さんの両親は1950年代に、出身地の東京からアメリカにそれぞれ留学、ミネアポリスで出会った。「父は、最初、コロラド州立大学で、次にミネソタ大学で植物の病気について勉強しました。母は自分で働いて貯めたお金で、アメリカに留学してきました。彼女はアメリカの南部の大学で勉強してから、ミネソタ大学でホームエコノミクス(家政学)を専攻し、修士号を取得しました」と大島さんは語った。
やがて父親がコロラド州立大学で教えることになり、コロラド州フォートコリンズへ引っ越した。そこで明マークさんは1960年に生まれた。5歳下に現在はワシントン大学で教鞭を執る弟のケンさんがいる。
「子どもの頃、家庭内の言語はほとんどが英語でした。父も母もそれぞれが英語を習得してから出会ったからです。それでも父は冗談で、僕のシャツを脱がせる時は『バンザーイ』と言っていました。それからとっくに日本では死語だったのに、映画に行く時は『活動写真に行こう』などとも言っていましたね(笑)」
大島さんが9歳の頃、母親は店を始めた。最初はクラフトを置いていたが、やがて日本のギフトや食料品が商品の中心となり、さらには店で日本文化教室を開講するようになった。
お正月になると大学の関係者や留学生を集めてパーティーを開催した。皆が持ち寄りで料理を担当。大島家は主に赤飯やお雑煮を作った。フォートコリンズの日系コミュニティーは、大学関係者以外にも、戦争中に他州からコロラドの収容所に送られ、戦後もそのまま留まった日系人たちもいた。「でも、我々のような新しい世代の日系人と彼らとの間には溝があったように思います」と大島さんは振り返る。
1年の日本滞在予定が30年に
父は大学で教え、母は商店を経営するという大島家に、転機が訪れたのは大島さんが16歳の時だった。父親が突然、クモ膜下出血でこの世を去ったのだ。「最悪のタイミングでした。母が設計して、新しい家を建てていた頃で、まだ家は完成していなくて保険にも加入していませんでした。しかも父は47歳で亡くなったので、まだ若く、ソーシャルセキュリティーやペンションも十分ではありませんでした。新しい家に引っ越してから、やっと父のお葬式を出すことができました」
しかし、母親を中心に一家は困難な時期を乗り越え、大島さんはハーバード大学に進学した。
大島さんは1981年から82年にかけてハーバードを休学して、東京の国際基督教大学(ICU)に学んだ。「ICUでは大学の友人と一緒にお能、文楽、歌舞伎の公演を見に行くようになりました。その時、歌舞伎座での英語のイヤホンガイドの話を友人が聞きつけ、私がサンプルを作って応募したところ、なんと合格したのです」
ハーバードに戻った大島さんは卒論のテーマを「歌舞伎の社会史」に変えた。大学院時代には、ニューヨーク公演でボランティアの通訳を務めたことで坂東玉三郎さんと、また、ハーバードやコロンビア大学で演劇を教えていた二代目尾上九朗右衛門さんとの交流が生まれた。そして、1987年にはジャパンファンデーションのフェローとして早稲田大学に籍を置くことになった。その時期に清元節と出会い、後に名取にまでなった。
人生には想定外のことが起こる
「今の若い日本人の歌舞伎に対する興味は薄れています。歌舞伎ワンピースだって、異端物とも言える作品です。それでも歌舞伎に興味を持つきっかけになるならいいことだと思うのです。私の仕事は日本の伝統文化である歌舞伎を日本人に身近に感じてもらえるように、また、外国の人にも親しんでもらえるように紹介していくことです。1987年、ジャパンファンデーションのフェローとして日本に留学した時、1年滞在したら、アメリカに帰って習得した日本文化を広めることが条件でした。しかし、私はそのまま日本に残ってしまいました。今回のようにアメリカの方々に歌舞伎を解説することで、やっとこのツケが払えたと思っています」
最後に10年後にどこで何をしているか聞いた。「10年後のことなんてわかりません。ICU時代、友人に誘われて歌舞伎を見に行きました。染五郎さんの襲名の時も、まさか自分が将来、染五郎さんと一緒に仕事をするなんて思ってもみませんでした」。彼は、想定外のことが人生には起こり得る、先のことはわからないと何度も繰り返した。しかし、彼が卒論のテーマを変えるほど歌舞伎に惹きつけられ、また1年の滞在期間を30年に伸ばしてまで研究し、語り手として舞台にも立ち続けた情熱が、今の彼の居場所を築いたと言えるのではないだろうか。
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