アメリカの原爆教育

『ラスト・チェリー・ブロッサム〜わたしのヒロシマ』の日本語訳はアマゾンなどで購入できる(写真提供:キャサリン・バーキンショーさん)

アメリカの学校で教育を受けた経験がない私だが、アメリカの学校で子どもたちが習ってきたほとんどのことに対して肯定的に受け止めてきた。しかし、一度だけ違和感を覚えた経験がある。それが「原爆」についてどう習うか、を聞いた時のことだ。アメリカで暮らしていても、私のように日本で義務教育を受けた人間なら、広島や長崎に原爆が投下されたことは罪もない多くの人の命を奪った残虐な行為だと解釈しているはずだ。しかし、当時中学生だったニナが「原爆を投下しなかったら戦争は終わらせることができなかった。原爆を落としたことで、日本が降伏した。降伏しなかったら、さらに多くの人が死んでいた」と言った時、私は言葉では表せないほどの強いショックを受けた。そして、平和活動家で実際の被爆者でもあるロサンゼルス在住の笹森恵子さんがニュークリア・ミュージアムを訪れた際、ドーセントが「広島と長崎に原子爆弾を投下したことで戦争を終結させることができた」と案内しているのを聞き、猛烈に抗議したのだという彼女の話を思い出した。

さらに先日、小説『ラスト・チェリー・ブロッサム〜わたしのヒロシマ』の作家、キャサリン・バーキンショーさんから聞いた、彼女が中学校での原爆教育に関して抱いた違和感にも深く共鳴した。この作品は、彼女の母親であり被爆者のとしこさんの少女時代をモデルに原爆の残酷さと平和の大切さを訴えた小説で、キャサリンさんは執筆以前に中学校で原爆について話すようになったきっかけを次のように話してくれたのだ。

「わたしの娘が中学生の時、クラスで原爆について学んでいたのですが、あの有名な雲の写真を見たクラスメイトが『なんてかっこいいキノコ雲なんだ』と叫んだと娘が教えてくれたのです。娘はそれを聞いてショックを受けました。私は子どもたちのために、原爆の事実について彼らに話をしなければならないと決意しました」

被爆二世として

としこさんは、自身の被爆体験を娘のキャサリンにもある時期まで話したことがなかった。原爆で大切な家族を失い、精神的にも肉体的にも大きなダメージを受けたことで広島を思い出すことがトラウマになっていたのだ。としこさんはアメリカ人と結婚して渡米すると、アメリカ市民となって名前をベティと名乗り、出身地を聞かれると広島ではなく東京と答えていたそうだ。

としこさんが過去の経験について話すようになったのは、娘のキャサリンさんが窮地に陥った時だった。キャサリンさんは30歳で交感神経系の病気を発症し、キャリアを諦めて一時寝たきりの状態になった。「娘はまだ4歳だったし、夫は働かなければなりませんでした。それで母が看病のために私と一緒に過ごしてくれたのです。当時、私は病気のせいで絶望的な心境でした。自分では何もできないし、娘の世話もできない。そんな私を見て母は広島でのことを話し始めたのです。被爆後、母は自殺しようとしたこともあったそうです。でも、もしそうしていたら娘の私も生まれなかったし、私の娘だって存在していなかったのです。だから、母はあなたもきっと大丈夫よ、と私のことを勇気付けてくれました」。

母親から原爆の話を聞いたキャサリンさんは、やがて手術を受けて車椅子生活から脱した後に、きっかけとなった出来事を受けて中学校に出かけて原爆の話をするようになり、それが小説執筆へとつながった。絶望するほどの重い病気を患った人にしかその状況は理解できないし、被爆した人にしか原爆の残酷さは説明できない、と私は思う。だから簡単に「あの原爆のおかげで戦争を終結させることができて良かった」と片づけるのは、あまりにも被爆者たちの辛苦を無視した短絡的な結論に思えてならない。

話を戻すと、キャサリンさんの『ラスト・チェリー・ブロッサム〜わたしのヒロシマ』は、戦時中と戦後の日本について丁寧にリサーチして書き上げられた珠玉の作品だ。少女とその家族の平穏だった生活が一瞬にして粉々にされたことを伝えることで、平和の大切さを静かに訴えている。証言者である被爆者が時と共に減っていく中、このような被爆二世の取り組みは称賛されるべきことだと思う。

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福田恵子 (Keiko Fukuda)

福田恵子 (Keiko Fukuda)

ライタープロフィール

東京の情報出版社勤務を経て1992年渡米。同年より在米日本語雑誌の編集職を2003年まで務める。独立してフリーライターとなってからは、人物インタビュー、アメリカ事情を中心に日米の雑誌に寄稿。執筆業の他にもコーディネーション、翻訳、ローカライゼーション、市場調査、在米日系企業の広報のアウトソーシングなどを手掛けながら母親業にも奮闘中。モットーは入社式で女性取締役のスピーチにあった「ビジネスにマイペースは許されない」。慌ただしく東奔西走する日々を続け、気づけば業界経験30年。

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