第51回 茶色の丘

文&写真/樋口ちづ子(Text and photo by Chizuko Higuchi)

Photo © Chizuko Higuchi

 若さはいい。恐れを知らない。少々のことは乗り切れることを無意識の内に知っている。無意識の反応や行動は、純粋で正直だから原動力がある。誰にでも若い時があったはず。私も若い頃はまるで不安というものがこの世に存在しないかのように、無謀なドライブ旅行に出かけたものだ。アメリカに来て、最初の一年は退屈な労働だったが、それでもどこからか楽しみを見つけ出していた。一週間にたった一度、ファストフードで食べるのも楽しみの一つ。今振り返るとなんとけなげだったのかと、なつかしい。もう一つの楽しみは旅行だった。未知の大自然を見ることが、ほとんど生きがいで、ゾクゾクするものだった。

 「これより先、60マイル、ガスステーションなし」という標識が立っていた。行く手には連なる山が見えるばかりの人里離れた山奥。その一車線の細くて長い山道に躊躇なく突っ込んだ。標識の意味するところは、途中で車がガス欠になっても、車が故障しても、助けが呼べませんよ、ということだ。また、運悪く、身ぐるみはがされ、気晴らしに殺されても、見つけてもらえませんよ、と警告されているのに等しい。今なら絶対にこんな道には入らない。分別もあり、不安もあるからだ。若い時は命がいっぱいあるから、命が惜しくない。命がなくなり始めた年齢になると、命は惜しくなる。失いたくないから不安になる。

 ラスベガスからヨセミテに5月の初めにドライブ旅行したことがあった。途中で灼熱の砂漠デスバレーを抜ける。あまりの暑さに水分が蒸発し、砂に残った塩分だけの塩の平原があることで有名な谷だ。ここで車がエンコすれば、10分後には日射病死が待っているといわれる。115度の外気、どうか車が止まりませんように、チラチラと心の中で祈りながら、冷房を落とし、エンジンの負担を最小限に抑え、息を止めて突っ走る。無事に通り抜けるとさすがにほっとした。

 やがて砂漠の中にぽつぽつと緑が現れ、草原になり、林になり、だんだんと高度が上がると針葉樹林になる。まるで植物体系図鑑を見るようだった。そして、目的地のヨセミテ国立公園に入る。するとどうだろう。ここはまだ深い雪の世界なのだった。車道の両側は3メートルの雪の壁が延々と続く。車が通れる幅だけ、積もった雪が掘られていた。時々、雪の壁がなくなると、ここは鹿の群れが横切るけもの道だから、鹿を見たら彼らを先に通すように、と標識に書いてある。雪山は早く暮れる。夕闇が迫ると気温が急速に下がり、私の中の動物の本能が防寒体制に入る。人間はホモサピエンス(賢い人間)という動物であることを想い出す。眠っていた本能が大自然の中で覚醒する。

 午前中は灼熱の世界、夕刻には深い雪山の世界。それを一日の内に体験した。大自然はこんなに雄大で、過酷で、死はいつも自分の隣にある原体験はアメリカで生きる激しさと、それゆえのあふれる喜びを教えてくれた。

 あれから30年。今は、あちこちのハイキングコースを歩く。命が惜しくなったのか、無茶ができなくなった。しかし、週末早朝にトレイルを歩くだけでも、自然との一体感を十分に味わえる。野を渡る風を頬に、降り注ぐ太陽を浴び、野鳥のさえずりを耳に、丘や山の小道を踏みしめ、ホモサピエンスという動物に還る。丘の上に立てば遠くに住宅街が見下ろせ、人間の日常生活が俯瞰して見られる。

 今年は雨が多かった冬のおかげで何十年に一度のスーパーブルームの春だった。山々は黄色や紫の野花で埋まりこの世のものとも思えない美しさだった。水さえあれば山は美しく変化するのを目の当たりにした。それも束の間、カリフォルニアの今は見慣れたいつもの茶色の丘である。茶色でも、色のバリエーションが何段階にもあり、わびさびの文化で育った日本人の感覚には、美しく映る。真っ青な空、幾重にも重なる茶色の丘陵風景を飽きずに眺める。水分があれば花は咲き、なければ枯れてわび、さびの違った美を創る。自然は私たちの中の純粋な動物的感覚を研ぎ澄まさせてくれる。

 どんな時でも、強くなければ生きてゆけない、やさしくなければ生きる意味がない。そんな当たり前のことを再確認する。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう37年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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