日本企業における運命共同体のコンセプトは是か非か〈前編〉
文/在米日本人フォーラム(Text by Japanese Forum USA)
- 2018年9月1日
日本は昔から資源が乏しい国と言われてきている。しかし、ここで実は資源はいくらでもある、と言ったら誰もが怪訝な顔をするに違いない。これは事実である。ここで言う資源とは「無駄」である。つまりこの無駄をなくすことにより時間と金を創生することができる。こう言われると反論する人は少ないだろう。
日本の組織の中になぜWhistleblower (内部告発者)が存在し得ないのか。それは日本だけにある現象ではないだろう。アメリカの組織の中でもかなり難しいことではないかと思う。しかし、Whistleblower の存在はその組織の自浄作用として、そして企業の長期的な成長には欠かせないことだ。それは組織が大きくなればなるほど、それがないことによる弊害と代償は大きい。
あるアメリカの企業の例を取ってみよう。その会社は社員がしてはいけないことを明文化している。いわゆるCode of Conductと呼ばれるものだ。そこには社員がしてはいけないことを客観的に判断できるように、明確に記されているのみならず、不正・違法行為を見た社員は報告義務があることも明記されている。さらに不正・違法行為を訴えた者の名前などが絶対公表されないことも保証されている。逆に不正・違法を見て見ぬふりをすれば、その社員も同罪として処罰の対象となる。
これは最近流行りのComplianceといった形式上のレベルではなく、組織が一般社会からの信頼を確保し維持するために、組織みずからがその襟を正す基本ルールである。わが社は社内の不正・違法行為を一切認めない、起こさせない、そしてそのためのシステムがある、ということをまず社内で徹底することなのだ。いわば社員全員がWhistleblowerになることを義務付けているといえるだろう。
さて本題に戻ろう。なぜ日本の組織の中にWhistleblowerが存在し得ないのか。これも古くからの日本の文化だからと言ってしまうと、身も蓋もなくなってしまう。だからあえてこの一枚岩を打ち砕くことに挑戦してみたい。
まず最初に挙げたいのが運命共同体という概念だ。その基本は、組織があるからその一員として存在し存続できる、言い換えれば組織が無ければ自分は存在し得ないというコンセプトだ。したがってみずからが所属する組織にマイナスになるようなことは、たとえそれが正しくないと分かっていても行動を起こさないという考え方だ。
長期的にはその組織にとって良くないことでも、それが今、明るみに出ると短期的にその組織にとって不利になる、したがって今はことを荒立てずに黙って「見て見ぬ振り」「問題の先送り」にした方がよいという結論を導き出すことだ。
前述のアメリカの会社でのCode of Conductの話は、基本的に不正、違法行為を撲滅・排除するための規則だ。日本の企業でも違法行為や不正行為に対してはかなり厳しく対応していると思う。しかしその徹底度・完全度がどうかというと疑問を投げかけざるを得ない。
最近マスコミで取り上げられた品質データの改竄のようなケースは、それが何十年も続いていたと聞くと、正しいことと正しくないことの分別がつかなくなってしまったのではないかと疑ってしまう。しかし本当はそうではないだろう。おそらくその裏は、正しい正しくないは分かっていても、会社にとってマイナスだから見て見ぬふりをしておこう、そんなことを言ったら誰かが責任をとらねばならない、社長の首が飛ぶかもしれない、等々の懸念から誰もあえて言わない、そして直そうとしなかったのではないだろうか。
つまり、自分は運命共同体に所属し依存しているのだから、その運命共同体の中で起こる不正行為を何とかして隠し通そうという判断が働いたのではないだろうか。良くないことと分かりながら、「赤信号、みんなで渡れば怖くない」、という行為そのものだ。
もう一つの見方は、上記のような組織の中では正論が正論として通らないことだ。そんなことが公になったら誰が責任を取るのかとか、誰も猫に鈴をつけに行きたがらないとか、極めて古い村組織の発想がはびこっているのではないだろうか。
確かに前述のデータ改竄が40年間も続いてきたとすれば、何代も前の社長まで責任が及ぶことになりかねない。従って皆が黙っていることが得策と考えてきたのだろう。おもしろいことに、これがむしろ正論だと考えている人の方が多いのかもしれない。
近年話題となった東芝の問題もその一例だと思う。いよいよ隠せ通せなくなった時には、すでに会社をつぶしかねない大きな問題に発展してしまっていた。そうなるまでに多くの社員がこれはまずいと気が付いていたはずだ。不正に気が付いていた社員はもっと早くこの問題に手を打つべきだった。なぜできなかったのだろうか。正論が通じない企業文化がそこにあったのだろう。
その根幹あるのが縦割の組織ではないだろうか。そこでは常に上司が判断し、その判断に対して部下は反論できない。それではその部門の成長はその上司の能力に制限されかねない。部下と上司が忌憚なく議論のできる組織であったなら、そこには必ず誰もが納得できる正論が成り立つはずである。
それでは、この縦割の組織の中で自由に議論しあえる環境はどうしたら作れるのだろうか。そのためには組織の中でもかなり低いレベルで議論する場や機会を設けることだと思う。
一昔前のQCサークルのようなものと考えればよい。そこで出てきた正論を段階的に高いレベルに持ち上げて行く仕組みだ。そのカギを握るのがエスカレーションだ。その仕組みは、たとえば、もし係長がダメと言ったら直接課長に話を持って行く、さらに課長がダメというなら部長に持ってゆくといった道を開くことだ。
ここで出てくる正論は日本式のボトムアップの流れと合致している。ただ違うことは、従前なら上司の一つひとつの段階を経なければ上に上げられなかった正論を、時には段階を飛ばして上申できることだ。このエスカレーションの道があれば上司もあまり勝手なことができなくなる。無能な上司がそのグループの成長を妨げるのを防ぐことにもなる。この下部組織からくる正論を受け止め、直視し、適切な行動をとることがリーダーに求められることになる。
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