定年制度にまとわる無駄
文/在米日本人フォーラム(Text by Japanese Forum USA)
- 2018年6月6日
日本は昔から資源が乏しい国と言われてきている。しかし、ここで実は資源はいくらでもある、と言ったら誰もが怪訝な顔をするに違いない。これは事実である。ここで言う資源とは「無駄」である。つまりこの無駄をなくすことにより時間と金を創生することができる。こう言われると反論する人は少ないだろう。
知人がいよいよ定年で退職すると言う。退職後何をするのか聞いたところ、実はやりたいことがたくさんあり、例えば、ピアノを習う、絵を習う、本を書く、などなど、まさに待ちきれない様子だった。
また別の人が定年退職を迎えたときに同じような質問をした。
あなたのような経験を持つ人を必要とする企業は沢山あるのではと聞くと、「勘弁してください。私は家族をほったらかして40年間会社人間として働いてきました。これからは奥さん孝行をします」という答えが返ってきた。これには「分かりました。」というしかなかった。
しかし、このような人は例外ではないだろうか。むしろ多くの人が「まだ働きたい」、「まだ働ける」、あるいは「まだまだ働かなくてならない」のではないだろうか。そこで定年制度について少し考えてみたい。
定年制度は、もちろん終身雇用という日本特有の社会制度と切り離して考えることはできない。そして、さらに終身雇用と連動しているのが新卒者の定期採用だ。つまり学校を卒業して就職すると定年退職するまで職を失うことはない。
これは各社員の能力があろうとなかろうと、あるいは会社への貢献度とは基本的に無関係だ。余程の失策か違法行為でもしない限り、クビになることもなく、そして時が来れば定年退職となる。
終身雇用制度の下では、社員は安穏としていられるわけだが、一方で雇用主から見れば、会社に貢献しないお荷物を定年まで背負うことでもある。これは日本に古くからあった弟子を最後まで面倒をみるという徒弟制度や、丁稚から叩き上げる奉公人制度と言った仕組みの名残なのかもしれない。あるいは、戦後の組合運動の行き過ぎの結果かもしれない。
しかし、これまではこうだったからこれからもこのままで良いと、言っていてよいのだろうか。単純に答えがあるとは思えないが、最近定年制度が話題になっているものの、ただ単に定年年齢をアップするだけの対応でよいとは思えない。
少子化そして労働人口の減少が喫緊の課題となっている日本では、世界を股にかけて活躍し知見に長けた人たち、技術畑に生きて高い技能を有する人たちなど、有為の人材を定年後も必要とする時代が既に来ているのではないか。
本人が引き続き働くことを望み、また企業が必要とするなら、ただ一定の年齢に達したからと言って、制度に従って退職させるのは余りにも無策と言える。これはまさに貴重な労働力と能力と人材の大きな「損失」、即ち「無駄」そのものなのだ。
ここで一つ提案したいことがある。
まずこの定年制度、終身雇用制度、そして定期採用制度という三つの制度のうち、定期採用制度の改革に着手してはどうだろうか。定期採用を「中途採用」と「新卒採用」の二つに分けて、「中途採用」を「主」とし、「新卒採用」を「副」としてはどうだろうか。
この主たる目的は、即戦力となる人材確保重視への切り替えだ。この採用制度の改変が、終身雇用制度という一枚岩を砕く起爆剤になるかも知れない。そして、各個人が自分の能力を十分発揮できる職種、職場への異動を容易にする環境ができると思うのだ。
終身雇用制度が生み出した今までの日本の組織に見られる「出る杭は打たれる」と言った環境は、今日のグローバルな企業環境にはそぐわない、且つ受け入れられない時代にきている。
日本の雇用そのものが、即戦力となり得る人材を、年齢の制限を受けず、その能力に応じた適材適所に採用できるような、柔軟的で開放的な労働市場を、今や必要としている。
世界において、経済や市場のグローバル化、あるいは技術革新は刻々と起きていて、ますます加速している。企業の体質も制度もそれなりに変えてゆく必要がある。限られた人材の最有効活用が今ほど必要となっている時はかつてなかったと言える。
昔から企業の主要三元素は「人、物、金」なり、と言われてきた。ここで特筆すべきは、「人」こそがまず最初にくる主要元素であることに今も昔も変わりがないということだ。
そしてその最も重要な元素である「人」を確保とするという意味では、今や「定年制度」は大きな人材の無駄を生むものであり、時代にそぐわないと言わざるをえない。
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