物流を制すものはビジネスを制すか?
第20回
- 2019年4月30日
1956年4月26日、世界に先んじて登場したコンテナ船は、その後の海運や物流を根底から変える一大物流革命であった。たった一人の「物流をもっと効率的に」という思いは、業界に投じられた一石に過ぎなかった。しかし、その小さな波はやがて大きなうねりとなって業界全体を包んでいく。
コンテナ船航路の拡大
当初はニュージャージーからニューストンまでの航路だったコンテナ船の定期航路は、徐々にその範囲を広げていった。また、コンテナの利便性を認めた荷主からは、需要が日ごとに増えていった。コンテナを積み上げるために設置されるガントリークレーンやコンテナを載せるシャーシも急ピッチで製造され、新たな投資案件として経済界や銀行業界からも注目されるに至る。マルカム・マクリーン氏のコンテナ船市場投入から5年もしないうちに、世界の海運会社がコンテナ船建造に舵を切ることになった。
シーランド社と同じ米国にあっては、アメリカン・プレジデント・ライン(通称APL)や欧州の優良会社マースク・ラインなどが次々にコンテナ船ビジネスに参入。当初、米国内の港から港へコンテナを運ぶ内航船のイメージだったシーランドは、1966年にコンテナ船初の欧州航路を開設。大西洋を渡るサービスを始めた。シーランド社の欧州サービスはロッテルダムやイギリスのサザンプトンなどに寄港し、欧州の関係者から大喝采を受けたといわれる。
日本の海運企業も遅れじと、運輸省および海運造船審議会などと連携してコンテナ船普及への筋道をつけていった。当時の日本海運界は、1964年の海運集約にともない大手中核6社体制が固まっており、そのなかで、日本郵船、商船三井、川崎汽船は独自のコンテナ船を建造し、コンテナビジネスに名乗りをあげたのだ。1966年のことだ。マルカムのコンテナ船初投入からすでに10年の月日が経っていた。
コンテナ船ビジネスは定期航路を中心とすることから、単独で航路運航をするのは負担が大きいため、数社でジョイントを組んで運航された。日本郵船は米国のマトソン社と共同運航することで定期運航を開始、維持推進した。商船三井、川崎汽船など5社もそれぞれが自社船を出し合い、一つのコンソーシアムを形成していった。こうしたコンソーシアムが、のちの北米運賃同盟を形作っていく。アジアの中でもとりわけ経済発展の著しい日本は、米国向けの貨物の輸送が多く、投入されたばかりのコンテナ船にとっても追い風となっていった。
北米運賃同盟の誕生
日本と米国、それに海運先進国である英国、欧州の海運企業がこの太平洋トレードに大きな可能性を見出し、主力を投入する結果となっていった。過度の競争で互いの体力の消耗を嫌う欧米の海運企業の提案により、北米運賃同盟が結成される。
実際には1900年初頭には結成されていたが、2度の世界大戦や、太平洋の貿易そのものの規模からほぼ有名無実の状態だった。しかし、戦後の日本の経済発展、そしてそれに続く韓国、台湾、中国の経済発展が北米航路を舞台に展開され、北米航路は世界最大の貿易トレードとなり、各船社も主力を投入してシェア拡大を目論んでいった。
欧州運賃同盟同様に、北米航路にあってもいくつかの共同運航グループができていった。また、荷主も同盟シッパーとして登録され、同盟船を使うことで運賃の一部が還元された。欧州同盟は同盟内の結束が強いことで荷主への拘束力を強く維持できたが、本来、オープンコンファレンスというスタンスを取る北米同盟は、荷主に対しての拘束力はあまり強くはなかった。ただし、欧州航路になくて北米航路にのみ存在するある米国の機関が、北米運賃同盟をある程度の規律を持って維持させえたと考えられる。「米国連邦海事委員会(FEDERAL MARITIME COMISSION)」通称FMCがそれである。
次号では、FMCについて触れる。
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