手を使うこと

文&写真/樋口ちづ子(Text and photo by Chizuko Higuchi)

コロナ自粛も9カ月も過ぎると、さすがに疲れてくる。少しずつ規制も緩和され始めたが、根本的な解決に至るには、まだ4カ月以上を要するだろう。3月半ばから始まったパンデミックに丸1年以上を費やすことになる。まさに前代未聞の世界体験だ。自滅しないように、工夫を重ね、各々、苦しみながらやっとの思いでしのいでいることだろう。

始まった当初は未知の恐怖から完全に閉じこもり、気分転換にとせっせと断捨離に励み、掃除と料理に打ち込んだ方が多かったようだ。料理した、というより食べることがエンターテインメントだったと言ったほうが近い。在宅生活を機に、この私でさえ料理しよう!と、けなげな気持ちになった。朝はバナナにトースト、トーストはこんがり焼き、ジャムかフィラデルフィアチーズを盛る。サニーサイドアップの卵も作り、熱いコーヒーをいれ、ゆったり過ごす。なんだか『クロワッサン』のグラビアにあるような朝だ。日頃の慌ただしい朝とは何という違いだろう。昼はサンドイッチ。いろいろ混ぜた野菜サラダ、スモークドサーモンをサイドに。夜は日本食。炊き込みご飯にしようか。海辺育ちの私は魚の煮物か焼き物があれば、それだけでハッピー。漬物と味噌汁を添えて完璧。ああ幸せ。というより、人間は非日常の何かをすると、小さな旅をして楽しくなるのかもしれない。何十万人の方が亡くなられたというテレビ放送を見聞きしながら、お気の毒なことだと同情し、退屈だと不平など言えないと反省する。

ところが楽をするとその分、必ずしっぺ返しが来る。それは増える体重という罰。しかも10パウンドと半端じゃあない。トホホ。この罰、結構重く、増やすのは簡単で減らすのは至難の業だ。それでも自分の手で料理する原始的でささやかな楽しさを味わえたのは良かった。手を使うのっていいなあ。ていねいに食器を洗ったり、台所をピッカピカに磨いたりするのも楽しい。質素でも、清潔な住空間はある種の美しさがある。

洋裁を始めた。エプロンが好きで、久しぶりに2枚作ってみた。薄い生地でも洋服の上から身体を覆うと温かい。洋服が汚れることを気にせずに、やりたいことに集中できる。若い時は節約のために、子供の服は自分で作った。スキーウエアまで作ったがこれだけはさすがに不評で、娘は一度しか着てくれなかった。細身の夫のズボンのサイズ28は、米国では子供のセクションにしかなく、それでは長さが足りず、自分で作ることにした。サイドのポケット、後ろのポケットもキチンと付けて。今から考えると、あんな複雑なものをよく作ったものだと我ながら感心する。時間がゆっくり流れていたのかもしれない。

油絵を描いている時は、絵の具でドロドロに汚れた灰色のエプロンを着けると、よっしゃ、と気合が入り、即、油絵の中に埋没した。エプロンには不思議な力がある。すっと気持ちが切り替わる。また絵に戻ってみようかなと小さな作品を作ってみた。手が感覚を覚えていて、もっと作りたくなった。見ただけで生きてゆくのが楽しくなるような、心踊るような、じっとしているのがもったいないような、そんなものを作ってみたい。真夜中でも早朝でも、どんなところでも、キャンパスが広げられる空間さえあれば、どこでもできる。絵が完成した後は作者はいらない。絵だけが一人で人前に出ればいい。絵は作者の心の反映だから、心だけが人前に出るのが一番だ。

雑草だらけの庭にも手を入れ始めた。大きく育ち過ぎたいちじくの大木を切り、花々でジャングル化した裏庭を整えよう。日焼けにかまわず庭仕事に打ち込んできたために、日光に晒した両腕は日焼け跡が醜く残っている。美しい花を育てる代償がこれならしかたがない。花か腕か、と問われれば、花だ、と即答できる。

先日、公証人の仕事でお客様の目前で書類を作成している時、「きれいな手をしていますね。一度も苦労をしてこなかった人なんだなあ、と思いました」と言われた。びっくりした。私はとっさに、それを打ち消す言葉が口をついて出そうになるのを堪えた。私よりもっと苦労を重ねられた方が大勢いるに違いない。

仕事を終え、一人になった時に、自分の手をじっとみつめた。老人特有の痣が無数に出てきて、血管も浮き上がっていた。こんなになっちゃったんだ。「よく働いてくれたね、くたびれた手でもいいよ。これからも一緒に頑張っていこうね」と、手に話しかけた。手をさする。私の戦友。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう43年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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