第36回 ケンカの報告

文&写真/樋口ちづ子(Text and photo by Chizuko Higuchi)

 
 若かった頃、私には苦い想い出がある。

 その頃住んでいたラスベガスは24時間眠らない街だから、ホテルの仕事は24時間シフトであった。夫婦共稼ぎをしようと思えば、二人が働く時間帯をずらせば、幼い子供の世話を自分たちだけでしながら、フルタイムで働くことができた。と、言葉にすれば簡単だが、実際には無理な話だ。無理はどこかにひずみが出る。

 仕事として孤児を大勢育てた姉から、子供が3歳になるまで、他人に預けてはいけない、それができるなら働きなさい、と忠告を受けた。姉の経験では、3歳児になるまでに親とのスキンシップが不足した子供は、それまで順調に育っていても、思春期になると万引きをしたり、トラブルを起こしたりと、問題児になることが多かったという。新米の親としては、経験者のアドバイスは貴重だ。それでずっと夫婦二人だけで育て、一度も他人に預けなかった。

 子供がやっと幼稚園に入る歳になった時には、ホッとした。朝10時から4時までだった。夫は午後の3時半に家を出て、夜中の11時半ごろ帰宅した。私はそれから身支度を整え、夜中の2時から朝10時までのシフトで働いていた。グレイブヤードシフトと呼んでいた。人が寝静まっている時間帯に働いているのだからまさに墓場の時間帯だった。それでも子供が起きている間に一緒に遊び食事をしたいなら、子供が寝ている間に働くしかない。朝帰宅し、11時頃から3時頃までの4時間が私が継続して睡眠が取れる唯一の時間帯だった。夜、夕食後に娘が寝着いた後から、夫が帰宅して起こしてくれる間の1—2時間もウトウトできた。子育てと仕事の両立は累積疲労との戦いだった。私たち夫婦も、お互いに身を粉にして働いていたから、労わりあい、ケンカをしたことはなかった。その暇がないほど、忙しく、疲れてもいた。

 しかしある夜、たった一度だけ、大ゲンカになった。何が原因だったのか今では全く憶えていない。疲れに疲れていたから小さなことが引き金になったのだろう。ののしりあい、物を投げつけあった。茶碗が音をたてて割れた。ソファーで寝付いた娘が目を覚まして激しく泣き始めた。私はドアを荒い音をたてて閉め、家を飛び出した。その日仕事をするのは、つらかった。ケンカがずっと尾を引いていた。

 その日の夕方、娘を幼稚園に迎えに行った。すると初老の穏やかな先生から「ミセスヒグチ、ちょっと待って。あなたにお話があります」と引き止められた。そんなことは初めてだった。私はすぐに娘が先生に昨晩のことを言いつけたのだと直感し、背中から冷や汗が流れた。頭の中で言い訳の英語を探した。先生はオフィスから1枚の紙を持ってきた。きっと、子供に精神的危害を加えたなどと書いてあるのだろう、どうしようと胸がドキドキした。先生は言った。

 「これを見て下さい。今日、リサがこの絵を描いたのです」

 そこには紙一杯に、8匹の動物が描かれていた。ヘビ、ウサギ、犬、猫、亀、皆まあるい線でふくよか、顔一杯にニコニコ笑っているではないか。しあわせそうだ。娘がこんな絵を描いたのは初めてだった。

子供の絵 Photo © Chizuko Higuchi

子供の絵
Photo © Chizuko Higuchi

 「この絵を雑誌に投稿したいのですが、許可をいただけますか?」

 私は、一瞬、昨晩の夫婦ゲンカを打ち明けようか、娘はこの絵でそのケンカの報告をしているのですと説明しようか、迷った。先生はもう何かを察していて、あえて言わないのだ、とも思い、恥ずかしさでそそくさと娘の手を引いて幼稚園を出た。

 娘は夫の体質を受け継いで、手のひらが濡れている。つないだ手がピッタリと私の手にくいついてきた。私はどうしてあの絵を描いたのか娘に聞こうか、迷った。迷いながら聞けないままに二人で歩いて家路についた。娘もとうとう何も言わなかった。

 以来、どんな時でもケンカはしない、声を荒げないことを自分に課した。あの絵は子供の無意識の精一杯の抗議だった。ごめんね。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう37年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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