[過去記事再掲] ジョージ・タケイが語る「強制収容命令」から70年
文&写真/佐藤美玲(Text and photo by Mirei Sato)
- 2015年12月23日
フランスでの同時多発テロ、カリフォルニアでの銃乱射テロをきっかけに、アメリカ国内で、イスラム教徒やムスリム系アメリカ人に対するいわれのない偏見と迫害が、再燃している。その風潮は、真珠湾攻撃の直後に日系アメリカ人が「敵性外国人」と見なされて受けたものに酷似している。「過ちを繰り返すな」。危機感を抱く日系人が各地で立ち上がり訴えている。
なかでも俳優のジョージ・タケイ氏は活発だ。おりしも、自身の強制収容体験をもとにつくった悲願のミュージカル「Allegiance」をブロードウエーで上演中。
筆者は2012年2月にタケイ氏にインタビューした。今日のアメリカ社会への示唆に富む発言を、再掲載する。
(*注:このインタビューは、2012年2月に実施。同年3月20日号のフロントライン誌に掲載されたものです)
日本軍の真珠湾攻撃から約2カ月後の1942年2月19日、ルーズベルト大統領は、安全保障の脅威になるという口実のもと、大統領行政命令9066号を発令。軍に、12万人の日系アメリカ人を強制収容する権限を与えた。
多くの日系人の夢や財産を奪った「運命の日」から、今年で70年が経った。体験を次世代に語り継ぐため、ロサンゼルスの全米日系人博物館は2月、新しいウェブサイト「Remembrance Project」を立ち上げた。収容された市井の人々の体験談を掲載していく。誰でも「書き込み」が可能。高齢化する「収容世代」に代わって、若い人たちが資料を調べたり家族から聞き書きしたりして記録できる。
同博物館名誉評議会長で、このプロジェクトの共同実行委員長を務める日系3世の俳優、ジョージ・タケイさんが、「70年」の歴史の重みを語った。
70年前、私は5歳になったばかりでした。リビングルームにいたらドアをノックする音がして、父が開けると、二人の兵士が立っていました。父は毅然としていましたが、弟とまだ赤ん坊だった妹を抱いて、普段は感情を見せない母の目から涙が流れていたのを覚えています。
サンタアニタの集合場所へ送られました。2ベッドルームの家から、馬小屋へ。子供の私は「馬が寝る場所で寝られるなんて!」とワクワクした気持ちでしたが、母は着いた途端、「くさいっ!」と日本語で、そして英語で「Stink terrible!」と言いました。
アーカンソーのローワー収容所へ列車で移動させられる間、町を通るたびに窓のシェードを落とすように言われました。私たちの姿は外から見られてはいけなかったのです。鉄条網に囲まれた収容所へ着いた時、両親は何を思っていたでしょうか…。
ある夜、ふと目が覚めると、二人がひそひそと小声で話しているのが聞こえました。石油ランプの灯りの下で、母が鼻をすするのが分かりました。ティーンエイジャーになってから父に教えてもらったのですが、二人はその夜、俗に言う「忠誠心調査」(アメリカのために戦い、日本への帰属を捨てる覚悟を問う二つの質問)にどう答えるか、相談していたのでした。
「家とビジネスは奪われても、尊厳だけは守り通す。彼らの思い通りになるような答えはしない」。そう決めた二人は「ノー、ノー」と答え、そのために一家そろってツールレイク収容所へ転送されました。
ツールレイクは、美しい名前の醜い土地。風が冷たく、冬は厳しく、植物も育たない場所でした。収容された人たちは皆、怒りを抱えていて、不穏な空気が漂っていました。ラジカルな思想をもつ若者たちが、体を鍛えるため毎朝バラックの周りを走っていました。「わっしょい、わっしょい」と言いながら。そして走り終わると「バンザーイ」と三唱していたのが、今も耳に残っています。
戦後、私たち一家はロサンゼルスに戻り、スキッド・ロウ(ダウンタウンの貧民街)に暮らしました。両親は、尿の臭いが漂う町で一生懸命に働き、4年後には3ベッドルームの家を買い、3人の子供に十分な教育を受けさせてくれたのです。
だから私は、このプロジェクトを両親に捧げるつもりで進めてきました。彼らの苦しみ、喪失に耐え立ち直る力、尊厳と品位、そして「ガマン」の精神に、感謝と敬意を表したいと思っています。
全米日系人博物館の使命は、日系人の体験を広くアメリカ社会で共有することです。メッセージは、「Never forget」(決して忘れない)。でも、「忘れる」以前に、多くの人が「知らない」という現実もあります。94年に自伝「To the Stars」を出版した時、プロモーションツアーで全米を回りましたが、ロッキー山脈を越えて東に行くと、日系人の歴史を知っている人はほとんどいませんでした。高い教育を受けた人でも、です。
博物館では大学や学校に教材を提供したり、カリキュラムを組み立てたりしてきました。今回のプロジェクトではインターネットの力を利用して、収容体験をより多くの人たちと共有したいと願っています。
私はいつも、大きな歴史の流れの中でものを見ます。アメリカでは長らく女性が重要な役割を担うことは許されていませんでしたが、平等な地位を求めてデモ行進を続けた結果、3人の女性が国務長官の座に就きました。建国時には奴隷制がありましたが、南北戦争や公民権運動を経て、今日、奴隷の子孫が国会議員となり、アフリカ系アメリカ人が大統領になっています。
私は、鉄条網に囲まれた政府の刑務所の中で育ちました。現在の成功、私が享受しているすべてのことは、この国の民主主義の結実なのだと思っています。だからこそ、若い人たちを教育し、前進を止めないよう、火を注ぎ続けたい。そうすることで、民主主義をより良いものにできると思うからです。
■プロジェクトの詳細:www.remembrance-project.org
「投稿」するには、寄付金が必要(90.66ドル〜)。
■全米日系人博物館:www.janm.org
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