ロサンゼルス郊外のコスタメサ市にセガーストロムコンサートホールがある。ロサンゼルスのダウンタウンにあるディズニーコンサートホールと並び、音響効果の優れた、素晴らしいホールである。あまり知られていないがコスタメサにはイサム・ノグチ・ガーデンもあり、セガーストロムはそのすぐ近くだ。この地の文化の中心である。
セガーストロムに本拠地をおくPacific Choirという優れた合唱団がある。この合唱団の一員であるといえば、それは実力のある歌い手だということ。毎年一夜だけ、Pacific Choral Festivalという素人参加型の合唱祭が行われる。昨年は8月16日だった。地元にクラシック音楽を還元する目的で、合唱を愛する人を一般から募り、舞台で一緒に歌わせてくれ、教育のチャンスを与えてくれる。普段は高価な客席が全席タダになるのも魅力だ。
合唱を始めて6年になるが、私にはずっと高嶺の花だった。あれ程立派なホールの舞台に立つことなど、夢のまた夢だった。しかし勇気を出して応募してみた。といってもテストがあるわけではなく、募集が始まったら早い者勝ちで申し込むだけ。実に民主的だ。人気があるから運よく入れたメールをもらった時は、思わず歓声をあげた。
コンサートの2カ月前に楽譜と参考にするYouTubeのサイト情報が送られてきた。コンサート3日前に練習に集まる時には、歌えるようにしておきなさいよ、ということだ。マスターできるだろうかという不安と同時に、プロ並に扱われているようで、嬉しい。愛国心にあふれた歌10曲だ。さっそく家族が留守の合間をぬって、こっそり練習を始める。
総合練習初日は、夜3時間。総勢207名の参加者のうち、私のような素人が約半数だった。初対面の人ばかりの練習室にコンダクターが現れる。長々とした挨拶抜きで、単刀直入、すぐに練習に入るのがいい。
知識、経験、実力を兼ね備え、世界中の優れた合唱団を指揮してきたコンダクターから、細かい指示が矢継ぎ早に飛ぶ。聞きなれない音楽用語、早い練習のテンポ、早口の英語。何がなんだか分からないが左右前後から聞こえてくる歌声は、まさに期待通りだ。確かな音程、豊かな声量、魅力的な人間の声の渦。この渦に包まれることこそ、憧れていたもの。至福の時である。
2日目は一日中缶詰めで指導を受ける。年間平均10ステージをこなすこの合唱団員に課せられる要望と同じものが飛ぶ。神経を集中し、耳をそばだてて聞く。最後の子音をはっきりと発音すること、発音をクリアーに、出だしを遅れず揃えて、と指摘される。それぞれの曲想に添った歌い方も具体的に指示される。
コンダクターの力量はここで発揮される。曲をどれ程深く理解し、愛しているか。求めている音のイメージをどれ程鮮明に我々に伝えることができるか。美への探究心はおのずと指揮者の言葉や人格に滲み出る。合唱団員が彼の音楽世界に共感する時、彼の音のひとコマになりたい思いが湧く。まるで繰り人形のように、合唱団がみるみる変わってゆく。
“Simple Gifts”という合唱では定番の曲がある。「まるで詩を朗読しているように歌ってくれ」と指揮者。「一つの文の中で、どの言葉が一番大切な言葉なのか。その大切なクライマックスの言葉に向かってメロディーが押し流されてゆくように歌って。ギフトという大切な言葉が、はっきりと聴衆の記億に残るように」と。
いよいよ3日目。本番の時間が迫ってきた。冗談ばかりで笑わせてくれた指揮者はいずまいを正し、一言。「皆さんと一緒に音楽が創れてしあわせな3日間でした。ありがとう。これから、あなたの持っている全てのものを聴衆にあげて下さい。ある人にはこのコンサートが生涯忘れられないものになるかもしれません」と。合唱団員から、大きな、暖かい拍手が沸いた。
舞台は強いライトに照らされた。さあ、はじまりです。男女の、年齢の、人種の相異を超え、207名がひとつになった人間の声のハーモニーが流れていった。これこそがアメリカの魅力であり、豊かさである。指揮者の「しあわせな3日間」という言葉が胸に残った。
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