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- 裏ななつ星紀行〜古代編 万葉ゆかりの地を訪ねて 葛城・宇陀の旅 第四話
裏ななつ星紀行〜古代編
万葉ゆかりの地を訪ねて 葛城・宇陀の旅
第四話
文/片山恭一(Text by Kyoichi Katayama)
写真/小平尚典(Photos by Naonori Kohira)
- 2016年5月13日
- 2016年5月号掲載
類型的とも言える挽歌の表現を踏襲しながら、恋愛詩としての抒情性が展開されていく。とくに強い恋情を詠んだ歌では、意図的に挽歌の修辞法が使われるようになっていく。つぎにあげる歌は、そのようなものとして読むことができる。
君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の
すだれ動かし 秋の風吹く(四・四八八)額田王
風をだに 恋ふるはともし 風をだに
来むとし待たば 何か嘆かむ(四・四八九)鏡王女
第四巻におさめられた相聞である。一首目には額田王が天智天皇を偲んでつくった歌という題詞がついている。二首目の作者、鏡王女についてはよくわかっていない。本居宣長は額田王の姉と考えていたようですが、異説も多いようだ。それはともかく、二首とも秋相聞として第八巻にも出てくるから、当時は代表的な相聞歌とされていたのだろう。少なくとも編者たちの目に、すぐれた恋の歌と映っていたことは間違いない。第四巻と第八巻は、ともに大伴家持が編集したと考えられている。彼は後代の詠み手たちに、「これらを手本にしなさい」と言いたかったのかもしれない。
ところで一首目を額田王の作とすることには、早くから疑問がもたれていた。作風が他の額田王の作とされる歌とはあまりにも異なっていること、「すだれ動かし秋の風吹く」といった繊細な表現が、この時代に突然あらわれることの不自然さ、などが主な理由である。やはり後代の歌人が仮託してつくった歌と解するのが穏当だろう。つまりフィクションである。額田王や鏡王女といった叙事伝説上の女たちをヒロインとしてつくられた、虚構の恋歌ということになる。
歌の作者は二人のヒロインを、ともに天智天皇の寵愛を受けた女として想定している。言ってみれば恋敵だ。二人のあいだには嫉妬などの対立感情があったかもしれない。そこで一首目、「すだれを動かして秋風が吹いていく」といったデリケートな情感を湛えて、恋する人を待ちかねている切ない女心が優美に描かれる。それに答えた歌、「風をすら恋焦がれているなんて、羨ましいこと。風が吹くたびに、あの人が来たのかしら、と胸をときめかすことができるなら、何を嘆く必要があるかしら」といくらかの皮肉を交えながらも、いじらしく応じる。まさに相聞の形式を踏んだ恋の鞘当てが繰り広げられているわけだ。
いずれの歌も、誰か特定の人を想定して詠まれたものではないだろう。挽歌の類型を踏みながら、表現の上での洗練と繊細が追求されている。その結果、先の磐姫皇后の歌に比べると、呪術的な暗さ、重さ、激しさ、おどろおどろしさは影を潜め、ずいぶん上品で可憐な印象を与えるものになっている。理解できない言いまわしはほとんどない。そこに表現された、恋する女たちの心情は、現代のわれわれにもすんなりと通じてしまう。その意味では、かなりモダンな歌と言ってもいいかもしれない。
こうした歌が秋相聞を代表するものとされ、長い歳月にわたって人々に愛誦されてきた。やはり読む者に「いいなあ」と思わせる何かがあったからだろう。受け取る人々の心に共鳴するものがあったから、時代を超えて愛誦しつづけられた。フィクションの力とは、そういうものではないかと思う。歌が詠まれた状況は嘘だとしても、歌に詠まれたものは真実であるということだ。
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