あ、しまった! 飛行機を間違えて日本に帰ってきてしまった! どうしよう。私は一瞬、ギョッとした。空港から街に行くバスの中だった。大失敗だ。あんなに憧れて何年も待ち、とうとう来たというのに、日本行きの飛行機と間違えるなんて最悪だ。私は意気消沈し、流れて行く窓外の風景をぼんやりと眺めていた。低い丘陵の穏やかな風景が続いた。街外れに入り、ポツポツと建物が現れ始めた。建物の看板が目に入った時、それがフランス語なのに気がついた。ああ、よかった。ちゃんとフランスに着いたのだ。胸を撫で下ろした。
それにしても、現実の何分かの間のその錯覚は、とてもリアルだったので、どうして自分の意識がそうなったのか、長い間、忘れることが出来なかった。そんな思い違いが起こるほど、フランスが日本に似ていたためかもしれない。少なくとも私には。フランスに来たのは初めてなのに、遠い昔、その風景をどこかで見たことがあるような感覚が付きまとった。すべてが懐かしく、自分が帰るべきお母さんの国に帰ってきたと、しみじみ思った。嬉しさが体の毛細血管の隅々まで染み渡っていくようだった。
パリの中心地の建築物はアメリカとも日本とも全く違う。何百年の繁栄の歴史を映した外観、その豪華絢爛さは度肝を抜く。イタリア、イギリス、ヨーロッパ各地の石の建築物は同様だ。ヨーロッパの長い豊かな歴史が刻まれ、かつての経済と文化の繁栄を如実に語る。石の文化の強みだろう。日本の紙と木の文化、アメリカの開拓文化を寄せ付けない異質で堅固なものだ。にもかかわらず、どうしてお母さんの国に帰ってきた、と感じたのだろう。
理由はいくつかある。まず、気候が似ている。いつも空のどこかに曇が浮かび、時々小雨がパラつき、雲間から太陽光線が差し込む。複雑な空の変化は日本と同じだ。こういう空の下では、柔らかい白光が大気に満ち、建物や人物が美しく撮れる。
仏人は小柄だからか、建物がこじんまりしている。広大な土地にそそり立つ巨大なビルばかりの米国から来た目には、パリの歴史的建物が一回り小さいのがはっきり判る。沢山の長方形の窓が縦長だから目の錯覚で、建物が実物より大きく見えるだけだ。泊まったルーブルが見える古いホテルの廊下は極端に狭く、すれ違う時はお互いの体が擦れ合うほどだ。昔なら、これだけで恋のきっかけにもなったろう。外の石畳の歩道は一人がやっと通れる幅で、馬車が通れば乗客の顔がはっきり見えたはず。その土地を訪れて初めて判る距離感覚というものがある。それが日本と似ている。
シャンゼリゼ通りにある、有名なマカロンの本店は、真っ白いユニフォームを着た売り子、いや、セールスウーマンが、お菓子をまるで大切な宝石を扱うかのように、一つずつ箱に詰めてくれる。菓子職人の仕事を大切にしている様子が日本人と同じ。微笑ましい。夕刻になれば、お惣菜屋さんは仕事帰りの人で溢れていた。量り売りする男性は皆ドクターのような白衣で、マネージャは黒の背広姿で応対していた。食文化に特別の愛着と尊敬がある。
ほとんどがオランダから入るらしいが、花屋さんの花々が生き生きしている。自然の色のまま。シクラメンの鉢を買うと、屈強な身体の男性がプレーンな茶色い包装紙でくるみ、リボンで結んでくれた。お洒落だ。夏の夜は10時過ぎてもカフェの外、歩道一杯にテーブルと椅子が並び、人々が談笑し、まるでゴッホの絵の世界そのものだっだ。街頭のクレープ屋さんでチョコレートにバナナを入れてもらい、アツアツを食べた。日本の夜店を思い出した。
モンマルトルの丘、若き日のピカソやゴッホらが暮らした建物を探して歩いた。急な坂の上り下りに息切れし、何度も立ち止まった。こんな不便な所でしか貧しいアーティストは部屋を借りられなかったのだ。冬はどんなに寒かったろう。この坂は凍って滑ったに違いない。彼らの生活の苦しさが身に染みた。そして彼らの残した美しい絵を思い続けた。
いつか住んでみたいお母さんの国、パリ。私は今日も、朝から晩まで、働き続ける。いつかお母さんのところに帰るために。
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