物流を制すものはビジネスを制すか?
第12回
- 2018年8月7日
ポルトガル、スペインに始まった大航海時代には、国力、戦力の優劣によりイタリア、ベルギー、フランスなど中心的な国の変遷は見られるが、やはり19世紀のはじめにナポレオン戦争に勝利した英国が世界の海の覇権を握り、大英帝国を建設することで一つの区切りを迎えた。
英国は東南アジアのビルマやマレーシア、香港、南太平洋までその範囲を拡大し、オーストラリア、ニュージーランドまでその威光は及んだ。18世紀にはすでに北米大陸に進出しており、その力は当時最強であった。
勢力を伸ばすイギリス
イギリスが制海権を掌握するには当然、海上で戦うための武器を常設していた船が果たした役割は大きい。16世紀にはイギリスは海軍委員会という組織を持ち、経験豊富な船乗りを雇い入れ、幹部候補として育成していた。
また、海運技術や航海術にも力を入れ、最新鋭の設備を持った海軍を構築していた。同時に
植民地との交易の発達から商船隊の構築にも力を入れていった。
有名なアルマダの戦いで、当時最強といわれたスペインの無敵艦隊を破り、イギリスの海軍は世界最強であることを証明したが、同時に世界に先んじて商船会社の設立、育成を進めていくのである。
1837年、イギリスでP&O(Peninsular and Oriental Steam Navigation)が商船会社として誕生する。大英帝国傘下のP&Oの勢いは凄まじく、植民地として陥れた地域にいち早く物資を運び、イギリス支配の地歩を固めるとともに、現地の食産物を安価で買い入れ、母国に持ち帰る輸送も請け負った。P&O社はイギリスの植民地政策に連動して、その活動範囲を拡大していったのだ。
インドや中国にも深く関わり、幕末の日本にも食指を延ばした。岩崎弥太郎の三菱との泥沼の運賃競争で疲弊した同社が、結果的に上海航路から撤退した経緯は以前のこのコラムでも紹介した。
日本と上海の間の航路を三菱に奪われたといっても、彼らにしてみればごく一部の航路の話であり、稼ぎ頭である英国とアジアの輸送は厳然と存在し、その交易をほぼ独占していた。
日本で三菱との競争に敗れた誇り高きP&O 社は、同じ欧州系の船社と歩調を合わせ、船社同士の同盟により、運賃を設定する協定を結んでいく。フランスやスペインの後塵を拝する機会の多かったドイツも海外への進出を強化しており、1847年にはハパック社、1871年にはハンブルグ・シュッド社を設立。海運界に進出してきた。ベルギーも1895年にはCMBを設立し、先行するイギリス、ドイツに続いた。
欧州運賃同盟の成立
こうした欧州系の船社が集まって設立されたのが、インド・欧州運賃同盟と呼ばれる機関である。出身国や政府の後押しもあることから、この同盟は泣く子も黙る世界最強の同盟といわれた。運賃は同盟内部の協定参加船社によって思うがままに設定された。
運賃の決め方も帷幕の中で決められたことから、のちに「クローズド・コンファレンス」と呼ばれ、アジア・北米間の輸送を掌る船社が集まって作られた北米運賃同盟の「オープン・コンファレンス」と対比されることが多かった。
インド・欧州運賃同盟には欧州系の船社が加入していたが、明治維新後、富国強兵政策のもと、国力の底上げと海外との交易で富を増やす必要のあった日本政府の後押しもあり、日本からも日本郵船や大阪商船(のちに三井と合併)などが徐々に協定に加わることになる。
第一次世界大戦や、第二次世界大戦という大きな争いを経験しても、存続した欧州運賃同盟であったが、戦争による国力の低下や植民地の独立などで徐々に母体となる欧州各国が弱体化する中で、運賃同盟にとって新たな動きが見られるようになる。同盟の枠にとらわれずに自社で運賃を決め、顧客の荷物を運ぶという盟外船社の出現である。
その動きは、第二次世界大戦の傷跡が多く残るアジアの地域で始まった。そして、それは従来のバルク船からコンテナ船へ移行していく過程と大きく重なっていく。
盟外船社の台頭はアジアの台頭でもあった。次号では同盟、盟外の熾烈な戦い、そしてその後について述べていく。
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