物流を制すものはビジネスを制すか?
第19回
- 2019年3月20日
戦後日本の海運・造船業
今回のメインのテーマとなる北米運賃同盟は、日本の経済的な発展なくしては語れない。
1945年、第二次世界大戦が日本の敗戦で幕を閉じ、世界は米国、ソ連(ロシア)、英国などの戦勝国を中心に動き始める。しかし、英国は戦時中にドイツ軍に受けた激しい攻撃で壊滅状態にあり、経済の立て直しには時間がかかった。ソ連も同様にドイツ軍の攻撃を受け、戦争の傷跡を多く残していた。一方、ハワイを除いて戦争の砲撃による被害を免れた米国本土には、経済を復興させるには充分な余力があった。
戦争終結の翌年、1946年12月当時の日本の吉田内閣は、「傾斜生産方式(石炭・鉄鋼重点主義)」の導入を決定。戦後の復興を重工業の復活に託した。また、同時に資源のない日本は、世界との交易をもって国を豊かにしていくためにも、海運、造船は欠かせないとの見地から、1947年9月から1949年2月まで計画造船(復興金融公庫融資による船舶公団の共有建造方式)が議決され、本格的な造船事業が開始された。
海外、とりわけ米国との将来の貿易を見据え、1949年4月には日本円と米ドルの間の為替レートが設定された。この時の為替レートは固定相場とされ、1ドルは=360円であった。また、その2カ月後の1949年6月には海上運送法が公布された。
海事産業研究所の『近代日本海事年表』によると、1949年6月に公布された海上運送法の公布は、海上運送の秩序を維持するとともに海上運送事業の健全な発達を図るとしている。しかも、そのなかで特筆すべき事項は、日本船の外航進出を予想して海運同盟(オープン・コンファレンス〈開放的同盟〉)を独禁法の適用除外とした点である。
それによって過度な運賃競争に晒されることなく、同盟内において一定の運賃を安定的に維持することが可能となり、船社経営にもプラスの働きをするものであった。これを契機に運輸省(当時)の主導による海運造船合理化審議会が発足し、造船、海運発展の方向性を示していくことになった。
日本の工業化と新たな動き
国策として造船、海運の強化が促されているが、そこに追い風が吹く。1950年6月の朝鮮戦争の勃発である。戦後の世界を統治する2大国家、米国とソビエト連邦が、その覇権争いを朝鮮半島を舞台に繰り広げたのだ。
米国に統治され、属国とされた日本は米国の指示で急速に工業化を進めた。朝鮮戦争による軍需の高まりが起き、日本の工業、鉱業、製造業に思わぬ需要が生み出された。戦争は1953年7月の朝鮮休戦協定が結ばれるまで約3年間繰り広げられ、朝鮮半島は大きな打撃を被った。日本は隣国の悲劇の上に、経済的な発展を得たのだ。
しかし、朝鮮戦争が休戦となると、戦後の不況が巻き起こった。日本の海運界を取り巻く状況は悪化の一途を辿る。
一方、海を渡った反対側の米国国内では、新たな動きが始まっていた。親から譲り受けた中古のトラックを駆使し、煙草の国内輸送で大きな富を築いた一人のトラック会社のオーナーが、輸送の効率化を高めるため、原油を運ぶタンカーを改良してまったく新しい船を建造。海運界に一大革命を起こしたのだ。マルカム・マクリーンによる、コンテナ船の登場である。
彼は1956年4月26日、改造した歴史上初のコンテナ船を使って、58本のコンテナをニュージャージーのニューアーク港からテキサス州のヒューストン港まで輸送した。彼は海と陸をコンテナでつなぐ新しい輸送形態を念頭に、会社名を「シー(SEA)ランド(LAND)」と名付けた。彼のその独創的なアイデアにより、海上輸送は新しい時代を迎える。そしてそれが、太平洋を挟む米国と日本の間の海上輸送に大きな流れを生み出すのであった。
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