[過去記事再掲] American Hero フレッド・コレマツを忘れない

文&写真/佐藤美玲(Text and photos by Mirei Sato)

 毎年1月30日、アメリカのいくつかの州は「フレッド・コレマツ・デー」を祝う。第2次大戦中、人種差別による強制収容を拒否した日系アメリカ人だ。今年はバージニアが新たにこの伝統に加わり、カリフォルニア、ハワイ、ユタ、イリノイ、ジョージアと合わせて全6州になった。
 イスラム教徒や移民排斥のムードが高まる今日のアメリカで、コレマツ氏の闘いと功績は、さらに重みを増している。

フレッド・コレマツ氏。1988年、長年の運動が実り、生存していた日系人収容者に2万ドルの補償金が配られた。その小切手を手にした写真 Photo by Shirley Nakao, Courtesy of the Korematsu Institute

フレッド・コレマツ氏。1988年、長年の運動が実り、生存していた日系人収容者に2万ドルの補償金が配られた。その小切手を手にした写真
Photo by Shirley Nakao, Courtesy of the Korematsu Institute

 (*この記事は2012年2月20日のフロントライン誌に掲載されたものです)

 毎年、桜がほころぶ季節になると思い出す人がいる。フレッド・トヨサブロウ・コレマツ。1919年1月30日、サンフランシスコの対岸、オークランドで生まれた日系2世だ。

 真珠湾攻撃の翌年の1942年2月19日、ルーズベルト大統領は、安全保障の脅威になるという口実のもと、大統領行政命令9066号を発令し、軍に12万人の日系人を強制収容する権限を与えた。

 このときコレマツ氏は23歳。オークランドで造船の溶接工をしていたが、ある日出勤すると書き置きがあり、日本人の血を引いているという理由で解雇された。間もなく他の西海岸の日系人と同様、収容所に送られることになったが、コレマツ氏はこれを拒否。
 「私はアメリカ人だ」

 交際していた白人のガールフレンドと一緒に、逃げる覚悟を決めた。日系人であることがバレないようにと目を整形し、名前をクライド・セイラーに変え、スペインとハワイの血を引いていることにした。
 しかし、待ち合わせの場所にガールフレンドは現れず、待っていた憲兵に逮捕された。

 軍の収容命令に従わなかったとして有罪になり、トパーズ収容所(ユタ)に送られた後も諦めず、強制収容は違憲であり判決は人種差別的だとして連邦最高裁に控訴したが、1944年12月に有罪が確定した。

 無罪を主張し続けるコレマツ氏に、日系社会は冷たかった。収容所の中でも親しくしようとする人はおらず、裁判をやめるよう圧力をかける人たちもいた。

 再審への道が開けたのは40年後だ。公民権活動家らが司法省に眠っていた文書を発見。強制収容の不当性を裏付ける新証拠の出現に、日系3世の弁護士たちが手弁当で集まり、コレマツ氏を支援した。
 司法省は、訴えの取り下げを条件に恩赦を申し出たが、コレマツ氏は撥ねつけた。「間違いを犯したと許しを請うべきは、政府の方だ」

 1983年11月、有罪判決は覆った。これで日系人の補償請求運動に勢いがつき、1988年、レーガン大統領と議会は強制収容が人種偏見による過ちだったと認めて謝罪し、1人あたり2万ドルの補償金を支払った。

 コレマツ氏は1998年、文民として最高位の大統領自由勲章を授かった。
 授与式でクリントン大統領は、「正義を追求し続けるアメリカの歴史において、普通の市民が何百万人もの魂のために立ち上がってきた。プレッシー、ブラウン、パークス(いずれも黒人差別撤廃のために裁判を起こした)。その輝かしいリストに今日、フレッド・コレマツを加える」と述べた。

黒人公民権活動家で、人種隔離政策撤廃への大きな一歩となったアラバマ州モンゴメリーのバスボイコット運動のヒロイン、ローザ・パークスさん(右)と Photo by Shirley Nakao, Courtesy of the Korematsu Institute

黒人公民権活動家で、人種隔離政策撤廃への大きな一歩となったアラバマ州モンゴメリーのバスボイコット運動のヒロイン、ローザ・パークスさん(右)と
Photo by Shirley Nakao, Courtesy of the Korematsu Institute

   ◆◆◆

 私がコレマツ氏を知ったのは、2000年の秋だ。当時私は、UCLA大学院の黒人研究学部に所属していて、「人種と法律」の授業をとっていた。

 ちょうどコレマツ氏のドキュメンタリー「Of Civil Wrongs and Rights」が完成したばかりで、ロースクールが開いた記念講演会に教授や同級生と一緒に出かけた。

 コレマツ氏は、再審までの40年を「たった一人の闘いでした」と振り返った。日系社会からも排斥され、「日本と日本人、アメリカを憎みました」。

 戦後、移住したミシガンで出会った白人のキャサリン夫人と結婚。レストランに行けば白人から罵声を浴び、外食もままならなかったと、キャサリン夫人は語った。
 当時、カリフォルニアを含む多くの州で、白人と非白人の結婚は違法だった。「前科」があるために、仕事を探すのも難しかった。

 痛みは心の奥底にしまい、家族にもほとんど語らなかった。娘のカレンさんは学校の授業で同級生が「フレッド・コレマツ」について発表するのを聞いて驚き、母に確認して初めて知った。
 「父は44年に敗訴したことで、収容された日系人すべてに対して責任を感じ、恥を背負って生きてきたのだと思います」と、後のインタビューで語っている。

 ロースクールの会場はマイノリティーの学生で満員だった。私の同級生の黒人男性は「コレマツ氏だけでなくキャサリン夫人にも感謝したい」と涙をためていた。

 上映会の後、コレマツ氏と話す機会があった。私が日本から来た留学生であると知ると、コレマツ氏の顔はくしゃくしゃになった。「この間、初めて日本に旅行したんですよ。地下鉄にも乗りました」。そう言って、手を握りしめてくれた。
 
 別れ際、「今もまだ、日本と日本人とアメリカを憎んでいますか」と聞いてみた。

 「No. Not anymore」 穏やかな優しい笑顔だった。

少数ながら、強制収容を拒否し法廷で争った日系人は他にもいた。ゴードン・ヒラバヤシ(左、2012年1月死去)、ミノル・ヤスイ(中、1984年死去)の両氏。大学卒で法律の知識が豊富だった2人に比べ、労働者階級のコレマツ氏(右)の勇気は、補償請求運動の過程で多くの人の共感を呼んだ Photo Property of Farallon Films, Permission Granted by the Korematsu Institute

少数ながら、強制収容を拒否し法廷で争った日系人は他にもいた。ゴードン・ヒラバヤシ(左、2012年1月死去)、ミノル・ヤスイ(中、1984年死去)の両氏。大学卒で法律の知識が豊富だった2人に比べ、労働者階級のコレマツ氏(右)の勇気は、補償請求運動の過程で多くの人の共感を呼んだ
Photo Property of Farallon Films, Permission Granted by the Korematsu Institute

   ◆◆◆

 それから数年後の2005年3月30日、コレマツ氏は他界した。86歳だった。

 2001年の中枢同時多発テロ以降は、イスラム教徒に対する差別やグアンタナモ湾収容所の状況を憂えて、「過ちを繰り返してはならない」と、亡くなる直前まで警鐘を鳴らし続けた。

 追悼式は、オークランドの教会で行われた。500人を超す参列者と一緒に、私も忘れがたいヒーローに拍手を送った。遺影の中のコレマツ氏は、あの日と同じ笑顔だった。教会の庭は、八重桜が満開だった。

 コレマツ氏の命日が近づくと、アメリカ全土の日系人街や公園で桜祭りが盛んになる。あらゆる人種が沿道に集まって、太鼓やみこし、日本の文化を楽しみ愛でる。

 そんな光景を見ると、私はいつも思う。今日のアメリカで、日本人が信頼され、尊敬を受けて友好的に暮らしていける、その根っこを支えているのは、優秀な日本車でも電子機器でもなく、クールなアニメや寿司でもない。
 権力や同朋からの排斥を恐れず、正しいことのために立ち上がり、代償を支払ったコレマツ氏のような多くの日系人が築いてきた歴史の恩恵を、私たちも受けているのだ、と。

 カリフォルニア州は2010年、コレマツ氏の誕生日1月30日を「フレッド・コレマツ・デー」と命名し、歴史を学び自由や人権を考える日にしている。

 2012年2月2日、スミソニアン国立肖像画美術館の永久展示「Struggle for Justice」に、マーティン・ルーサー・キング牧師らと並んで、コレマツ氏の写真が加えられた。アジア系アメリカ人としては、初めてになる。

参考情報

●フレッド・コレマツに関する資料や教材
korematsuinstitute.org

●スミソニアン国立肖像画美術館
Smithsonian National Portrait Gallery
www.npg.si.edu/exhibit/struggle/index.html

●ドキュメンタリー
「Of Civil Wrongs and Rights: Fred Korematsu Story」
www.pbs.org/pov/ofcivilwrongsandrights/

この記事が気に入りましたか?

US FrontLineは毎日アメリカの最新情報を日本語でお届けします

佐藤美玲 (Mirei Sato)

佐藤美玲 (Mirei Sato)

ライタープロフィール

東京生まれ。子供の時に見たTVドラマ「Roots」に感化され、アメリカの黒人問題に対する興味を深める。日本女子大英文学科アメリカ研究卒業。朝日新聞記者を経て、1999年、大学院留学のため渡米。UCLAアメリカ黒人研究学部卒業・修士号。UMass-Amherst、UC-Berkeleyのアメリカ黒人研究学部・博士課程に在籍。黒人史と文化、メディアと人種の問題を研究。2007年からU.S. FrontLine誌編集記者。大統領選を含め、アメリカを深く広く取材する。

この著者への感想・コメントはこちらから

Name / お名前*

Email*

Comment / 本文

この著者の最新の記事

関連記事

アメリカの移民法・ビザ
アメリカから日本への帰国
アメリカのビジネス
アメリカの人材採用

注目の記事

  1. 今年、UCを卒業するニナは大学で上級の日本語クラスを取っていた。どんな授業内容か、課題には...
  2. ニューヨーク風景 アメリカにある程度、あるいは長年住んでいる人なら分かると思うが、外国である...
  3. 広大な「バッファロー狩りの断崖」。かつて壮絶な狩猟が行われていたことが想像できないほど、 現在は穏...
  4. ©Kevin Baird/Flickr LOHASの聖地 Boulder, Colorad...
  5. アメリカ在住者で子どもがいる方なら「イマージョンプログラム」という言葉を聞いたことがあるか...
  6. 2024年2月9日

    劣化する命、育つ命
    フローレンス 誰もが年を取る。アンチエイジングに積極的に取り組まれている方はそれなりの成果が...
  7. 長さ8キロ、幅1キロの面積を持つミグアシャ国立公園は、脊椎動物の化石が埋まった岩層を保護するために...
  8. 本稿は、特に日系企業で1年を通して米国に滞在する駐在員が連邦税務申告書「Form 1040...
ページ上部へ戻る