第22回 まさかの坂

文&写真/樋口ちづ子(Text and photos by Chizuko Higuchi)

 机の上にカレンダーを置いている。毎日の予定が書き込める1カ月ごとのカレンダーである。朝、今日の予定をどうこなすか、小さいコマのスペースの中に動きを見る。自分の使える時間を計っているのかもしれない。この世は永遠に続くだろうが、個々の我々は80年か長くて100年、この世に間借りしているに過ぎない。

 人それぞれの性格もあるが、生きていられるだけでもありがたいと思う能天気な私は、少々変わり者だ。日本にいれば苦労も喜びも人並みに経験はするだろうが、そこそこの暮らしをしていただろう。なのに、よりによって肉体労働から始めなければならないアメリカ生活を選んだのだから。底辺でもがき続けた結果、今では月末に支払いが出来るか、ドキドキすることも少なくなった。多少の安心を得たわけである。しかし、いつも心していることが一つある。それは「まさかの坂」がやって来た時、向かいあえるか、ということだ。

まさかの坂 Photo © Chizuko Higuchi

まさかの坂
Photo © Chizuko Higuchi

 「人生は上り坂、下り坂。それだけだと思ったら大間違いだよ。その後に、まさかの坂があるんだよ」そう教えてくれた人がある。

 N氏は文武両道のビジネスオーナー。文章もうまく、野球はピッチャー。人望厚く、いつも人に囲まれている。話上手で、よくぞ思いつくと思う程のジョークを連発し、笑いが絶えない。しかし、決して他人を傷つけない。会社は絢爛豪華で、25名の社員は生き生きと働いていた。ビジネスの成功は勿論だが、押さえる所はきっちり押さえ、努力の仕方も半端ではなかった。世の中にはまれにこんな人がいる。出会えたら幸運だ。その人からしみじみともれた言葉が、この言葉だった。

 彼の出くわした「まさかの坂」とはこうである。4年前のこと。創立35年の事業は順風満帆である。米国から日本へ肉の輸出業。70歳を前にそろそろ会社を売却し、引退しようと売却先を物色していた。その矢先に、とんでもないことが起こった。日本の大手の取引先が品質表示疑惑をうけ、あっという間に倒産した。連鎖反応で彼のビジネスも終った。従業員全員を解雇し、立派なビルを立ち退いた。生涯情熱を注ぎ大きくしたわが子同然のビジネスを全て失った。まさか、まさかの出来事である。

 この事件の半年後だった。用事があり、彼の新事務所に立ち寄るように言われた。暗い小さな部屋に机が一つ、電話が一つあった。それだけ。だが、彼は以前と全く変わらなかった。言い訳一つせず、グチ一つこぼさなかった。ただ「まさかの坂があるんだよ」と言われた。

 それから2年後に会った時、高層ビルの新事務所で、彼は夕陽に照らされて輝くロサンゼルスの平地を見下ろしていた。「一日中、この風景をぼんやり眺めていると、面白いアイデアが湧いてくるんだよ」と、言われた。あれから彼はカナダ、南米を駆け巡り、一人で新しいビジネスを立ち上げていた。順調に大きく展開し始めていた。つくづく、すごい人だと思った。

 私なら、陰で泣く。他人の落ち度で狂った自分の運命を呪う。なぜ、こんなに誠実に人に尽くし、真面目に生きている自分に「まさかの坂」がくるんだ、世の中は不公平だ。神仏に恨みつらみをタラタラ言うような気がする。

 しかし、それがすんだら、はて、さて、まさかの坂をどう登ろうか、ルートを考える力をしぼり出せるかどうかが、人生の勝負どころかもしれないと、N氏の姿に教えられた。

 「いつも最悪の事態を想定し、それに備えながらも、恐れずに、ドンドン行け」と彼は言う。彼の辞書に敗退はない。

 どんな坂でも、挑戦できるチャンスと受け止めれば、生きる喜びに色がついてくる。登ろうともがいた足跡から、語れるストーリーが生まれる。

 「まさかの坂」に気を引き締めながら、今日の仕事に順番をつける。ピンクのペンで。

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樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

樋口ちづ子 (Chizuko Higuchi)

ライタープロフィール

カリフォルニア州オレンジ郡在住。気がつけばアメリカに暮らしてもう43年。1976年に渡米し、アラバマを皮切りに全米各地を仕事で回る。ラスベガスで結婚、一女の母に。カリフォルニアで美術を学び、あさひ学園教師やビジュアルアーツ教師を経て、1999年から不動産業に従事。山口県萩市出身。早稲田大学卒。

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